肥後国南部の大河川・球磨川の最下流部に位置する港町。戦国大名・相良氏の本拠地として、肥後南部の中心を担った城下町でもあった。相良氏進出以前からも名和氏の城下町、妙見宮の門前町としてある程度発展していたと思われる。
相良氏の城下町
天文二年(1533)、相良氏により八代本城が改修・築城が開始され、八代は相良氏の城下町として本格的な発展期を迎える。『八代日記』弘治元年(1555)七月二十日条に「大水、求麻河陣内橋下はほり(堀)ニさし合」とあるように、八代には濠があった。遺構や記録から八代城下は、総延長2kmにも及ぶ惣構えの堀に包括されていたと推定されている。
水路と惣構
天正十五年(1587)四月、八代を訪れた宣教師・フロイスは「海水は城の麓にある主要な町(八代)に入る一里手前まで入り込んでおり、その町へは海路からでなくては入ることも登ることもできない」と記している。八代が河口の外港・徳淵と水路で結ばれ、かつ惣構に囲まれていたことがうかがえる。
惣構内には公の施設である陣内(御内)を中心に、相良氏家臣団の侍屋敷がある程度計画的に配置されていたとみられる。また他にも杭瀬三町(一日市、七日市、九日市)や宮地町などの町家があった。
八代の住人
『八代日記』によれば、これらの町には「かたなかう」(刀工)や「薬屋」、「斗屋」*1が屋敷を構えていた。
また「さか屋」などは徳淵を港として渡唐船を仕立てている。多くの商人、職人が居住し、国際的な貿易も行われる大きな都市となっていることがわかる。
参考文献
*1:永禄八年(1565)六月に上津浦鎮貞が「斗屋」に宿泊したことが『八代日記』にみえる。流通貨幣としての銀を秤量する商人とみられる。