戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

イヴァンゴロド いばんごろど

 ナローヴァ川下流右岸の都市。都市の名は、当時のロシア(モスクワ大公国)の君主・イヴァン3世に因む。ロシアとリヴォニア*1の境界に接し、対岸にはリヴォニア騎士団の都市・ナルヴァがある。

ロシア初の海港都市

 イヴァンゴロドは、明応元年(1492)に建設された。建設には、前年までノヴゴロドで新たに石造りの内城(クレムリ)築城に従事していた職人たちが、ふりむけられた。面積は1600平方メートルと決して大きくはなかったが、当時のロシアでは他に例を見ない形状をもった要塞で、厚さ3メートルの城壁に囲まれていた。

 イヴァンゴロドが築かれたナローヴァ川下流の右岸は、河口のフィンランド湾南岸から12キロメートル遡上した位置にあり、船舶の航行も可能であった。すなわち、ヨーロッパの国際貿易の北の幹線であったバルト海にむけて開かれた「海港都市」であった。

 当時、ロシア*2が西方と交易する場合、ノヴゴロドに商館を置く経済同盟ハンザ、またはハンザに加盟していないリヴォニア都市ナルヴァをバイパスとする必要があった。しかしナルヴァの対岸にイヴァンゴロドを築くことで、状況に大きな変化をもたらした。その意義は、「ロシアから他のヨーロッパ諸国へと通じる海路をハンザが独占しているという状態に風穴を開けた」と評価される。

諸勢力の反発

 一方で、ロシアと西方との中継貿易で繁栄していたレヴァル、ドルパート、ナルヴァなどのリヴォニア都市にとっては、存亡に関わる事態となった。ハンザ同盟も、加盟都市の商人がイヴァンゴロドを通じてロシアと交易することを厳しく禁じた。違反者は海賊(ハンザの私掠船)の襲撃にさらされた。

 これに対し、ロシア(モスクワ大公国)のイヴァン3世は、明応二年(1483)にリヴォニア騎士団との10年間の講和を更新し、デンマークとも同盟を締結。翌年には、ノヴゴロドのハンザ商館を閉鎖させた。西方に対外通商の拠点を築きつつある状況で、旧来のノヴゴロドのハンザ商館を通じての交易に、拘泥する理由が無くなってきたためともいわれる。

イヴァンゴロド陥落

 明応四年(1495)、ロシアはデンマークとともにスウェーデンと開戦。9月、フィンランド湾北東部の要衝・ヴィボルグを包囲した。しかし攻略には至らず、12月末に撤退した。ロシアは翌年にもフィンランド各地に兵を進めたが、これに対しスウェーデン軍はヴィボルグから船でフィンランド湾を横切り、南岸のイヴァンゴロドを急襲した。

 明応五年(1496)8月、数千名のスウェーデン軍がナローヴァ川を遡上して上陸。不意を衝かれたイヴァンゴロドは1週間にわたる包囲戦のすえ陥落した。当時イヴァンゴロドには、交易用の毛皮と蜜蝋が大量に貯えられていた。包囲戦の際の火災で、おびただしい量の蜜蝋が溶け出して川のように流れ、その上をボートですすめるほどであったという。

 スウェーデン軍はイヴァンゴロドを破壊し、毛皮その他の商品からなる莫大な戦利品をもって海路撤収した。ロシアはすみやかに再建工事をすすめ、12週間後には竣工。防衛力を高めるため、巨大な長方形の城市も付け城として築いた。

イヴァン3世死後

 スウェーデンとの戦争は明応六年(1497)3月に終結したが、結果としてリヴォニアとロシアの関係は不安定化した。リヴォニアリトアニアと同盟し、文亀元年(1501)にロシア=リヴォニア戦争が勃発。戦争終了後の永正二年(1505)、イヴァン3世は死去し、息子のヴァシリー3世が跡を継いだ。

 ヴァシリー3世はハンザとの関係正常化をはかり、対外交易の状況を改善させた。イヴァンゴロドも大いに活況を呈し、対岸の都市ナルヴァに経済的な脅威を与えるまでになっていく。

 イヴァンゴロドには、ロシアのステープル(法定市場)として、対外交易における格別の地位が与えれらた。ロシア政府は、ロシア人、ドイツ人の商人に対し、西方向けの商品を直接ナルヴァに持ち込まず、イヴァンゴロドに立ち寄るように命じた。イヴァンゴロドのステープルをとおして、ロシアから西方へと輸出される商品の流れを掌握するようになったのである。

参考文献

  • 中村 仁志「イヴァンゴロドの建設とロシアのバルト政策」(『関西大学東西学術研究所紀要』36) 2003

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イヴァンゴロド要塞 Photo by Rudy Tiben from FreeImages

*1:現在のエストニア、ラトヴィアにあたる地域。

*2:イヴァン3世を君主とするモスクワ大公国が中心となって、統合が進んでいた。