戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

藤津 ふじつ

 有明海の北西、肥前国藤津郡の港町。現在の佐賀県鹿島市浜町付近に比定される。

伊勢御師の宿

 永禄年間に伊勢御師、藤井氏が肥前西部地域の檀所を回った記録『肥前日記』*1によれば、永禄四年(1561)の「藤津之分」に「屋と」(宿)がみえる。

 藤津に伊勢御師の「宿」があることから、ここが藤津郡内の交通上の要衝であり、伊勢御師の活動拠点となったことが推測される。「宿」は永禄十年(1567)、同十一年(1568)の記録にもみえ、いずれも中村二郎左衛門尉が勤めている。

町衆の形成

 『肥前日記』永禄四年の記録では「藤津之分」として藤津郡全体の「御祓大麻」の配布先がみえるが、同十年には「まちの衆」と注記されており、町場が形成され、町衆が組織されていたことがうかがえる。さらに永禄十一年では「藤津之分」の項とは別に「藤津まち」があり、「はかりや二郎兵衛殿」ら9名が記載されている。

他国商人の活動

 藤津には他国と取引する商人が駐在していた。永禄四年の記録には「藤津之分」の項に「彼後 たかせ屋」(肥後の高瀬屋)、「□んこ おきのはま屋とかけや与三左衛門殿」(豊後沖浜屋と掛屋与三左衛門殿)がみえる。高瀬肥後国有明海に面した港であり、沖浜は豊後の大友氏の本拠、府内の外港として知られた。藤津ではこれら九州各地の港町との交易が日常的に行われていたと考えられる。

銀の流通

 『肥前日記』の永禄四年分では初穂料納入者22人全員が銭貨で納入しているが、永禄十年(1567)分では銭での納入が35件あった一方、銀での納入が20件(銭、金との併用含む)となっている。永禄十一年には銭での納入が42件、銀での納入が21件だった。藤津を含む肥前国西部で銀の流通が拡大している状況がうかがえる。

 『肥前日記』からは銀流通に関わる商人が、藤津に存在したことが分かる。上記の「かけや与三左衛門」(掛屋与三左衛門)の「掛屋」とは「銀掛け屋」ともいわれ、江戸期には蔵物の管理、売却、その代銀の管理、輸送、両替を行った商人を指す。藤津の「かけや」は伊勢や肥後、豊後などの遠隔地との銀流通に関わった可能性がある。

 また永禄十一年の記録には、「藤津まち」に「はかりや二郎兵衛」という人物がみえる。「計屋」は豊後や肥後の市町(臼杵府内佐賀関、高瀬、八代など)にも存在が確認され、流通貨幣としての銀を秤量する業務を担っていた。藤津では豊後や肥後と流通ネットワークを形成され、銀流通もまたこのネットワークによって拡大していたと思われる。

参考文献

  • 鈴木敦子 「肥前国内における銀の「貨幣化」」 (『戦国期の流通と地域社会』 2011 同成社

*1:永禄四年(1561)、永禄十年(1567)、永禄十一年(1568)に伊勢御師の藤井氏が肥前国西部地域(藤津、彼杵、高来の三郡)の檀所で「御祓大麻」を配付した際の記録。