戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大砲(ポルトガル) たいほう

 15世紀後半、ポルトガルは海外進出と貿易の拡大にともない、大砲への国内需要が増加した。同国は、一大「大砲市場」となっていった。

ポルトガルにおける大砲製造の隆盛

 ポルトガルは国内で砲術師や大砲鋳造師を養成する一方、フランドルやドイツなどの国外からも技術者を招いて大砲産業のさらなる隆盛を図った。

 国王ジョアン三世(1502~57)は、自国のインド進出にあわせて積極的に大砲製造に関与。先述の技術者の育成とともに、兵器廠や輜重隊(軍需品を運搬する部隊)の創設と改善に国家財源を充当するなど、兵器産業の発達に尽力した。

大砲と貿易

 ポルトガルで製造された鋳銅砲は、ベルギーのアントウェルペンをはじめドイツのニュルンベルクやフランスのリヨン、イタリアのボルツァーノなど、当時のヨーロッパを代表する主要な地域の市場で取り引きされ、ポルトガルに大きな利益をもたらした。ポルトガルは、この大砲取引で得た利益をさらに海外進出への資本に充てた。

 一方でポルトガルは、他国から積極的に軍需物資を輸入した。アントウェルペンからは大量の銅や弾丸を輸入しており、銅は鋳銅砲の製造に用いられた。国王マヌエル一世の治世下(1495~1521)には、総計5,200トン以上の銅がもたらされたという。反対にポルトガルからアントウェルペンには、西アフリカの金や象牙、黒胡椒、モルッカ諸島の各種香料が輸出された。

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兵器産業の振興と衰退

 ポルトガルは国内の大砲市場での取引を活発化させるため、あらゆる種類の武器の輸入を非課税とした。この税制上の特権もポルトガル国内での大砲生産を刺激し、大砲の増産をもたらすことになった。こうした一連の国策もあって、1610年代に入るとリスボンには王立大砲鋳造所が3カ所、民間の鋳造所が2カ所、開設された。

 しかし、その生産量は海外に拡大した領国内に十分な供給ができるほどには達しなかった。1621年頃、中国大陸南岸のマカオでは防御用の大砲が不足し、フィリピンのマニラから大砲を調達するという事態が起きている。

 1640年、ポルトガルはスペインから独立するが、その後は大砲と弾薬の供給をオランダから仰ぐようになった。最初はポルトガル優位だった大砲産業が、この頃にはオランダに逆転されていた。

参考文献

オランダ東インド会社の艦船で艦載砲として使用された大砲
砲身にはポルトガルのシンボルである粒状の小さな天球があり、元はポルトガル製だった可能性があるという
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

サンジョルジェ城 lappingによるPixabayからの画像