戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

焔硝(輸入品) えんしょう

 戦国期、日本では硝石の多くを海外からの輸入に頼っていた。硝石は焔硝または塩硝と呼ばれ、鉄炮の火薬(玉薬)製造のための材料として炭や硫黄とともに調合された。

タイからの輸入

 堺市の倉庫跡とみられる遺構からは、タイ製の四耳壺が5個出土している。そのうちの2個からは充填された硫黄がそのまま出てきており、残りの3個には硝石が入っていた可能性もあるという。今までにそういった壺が、20個ほど出土している。

 『異国出契』*1によると、徳川家康は長年求めてきたシャム(タイ)の煙硝は良質だと述べている。

堺商人と焔硝

 堺商人は早くから焔硝を扱っていた。本願寺証如の日記である『天文日記』の天文二十一年(1552)十二月七日の記事に、本願寺が焔硝10斤を将軍・足利義藤(義輝)に献上したことがみえる。それは堺から取り寄せたものであった。

九州での焔硝調達

 大陸に近い西国、九州では南蛮船など外国商船から焔硝や玉薬の調達が可能であった。天正十四年(1586)九月、島津家久肥前平戸に来航した南蛮船から玉薬を購入しようと計画。使者の同行を、島津家臣・上井覚兼に求めている(『上井覚兼日記』)。

宗麟の焔硝買い占め

 戦国大名間の戦争に鉄炮が本格的に導入されるようになると、大名たちは焔硝の確保につとめる一方で、他勢力への移入封鎖も図るようになる。永禄十一年(1567)十月十七日、豊後の大友宗麟マカオの司教ドン・ベルシオール・カルネイロに対し、自身と敵対する「山口王」毛利元就が硝石を輸入することを一切禁止してほしいと要請している。

 あわせてカピタンモールをして、大友氏のもとに毎年良質の硝石200斤を運ぶことを求めている。宗麟はこの硝石200斤を銀1貫目、あるいは言い値で購入するとも述べている。

毛利氏の焔硝入手ルート

 一方で、毛利氏も領内の貿易港で焔硝の輸入を行っていた。年未詳十二月、毛利輝元赤間関代官の高須元兼赤間関で輸入品の調達を担当していた)に、「塩硝一廉」の入手を命じている。赤間関には明の商人も来航しており、焔硝は彼らから入手していたのかもしれない。

瀬戸内海封鎖作戦

 また毛利氏は織田氏との戦争中、商買のために九州に下向した八浜姫路の商船の抑留を瀬戸内海西部の海上勢力に命じている。八浜や姫路は宇喜多氏や羽柴秀吉ら織田方勢力の支配下にあった。九州へ下向した商船は、焔硝など軍需物資の調達を目的としていたとみられる。

参考文献

  • 宇田川武久 『歴史文化ライブラリー146 鉄砲と戦国合戦』 吉川弘文館 2002
  • 宇田川武久 『真説 鉄砲伝来』 平凡社 2006
  • 岸田裕之 「中世後期の地方経済と都市」 (『大名領国の経済構造』 岩波書店 2001)
  • 岸田裕之 「大名領国下における赤間関支配と問丸左甲氏」(『大名領国の経済構造』) 岩波書店 2001

*1:古代から近世までの外交関係文書集。