戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

医書(中国) いしょ

 嘉靖四十一年(1562)、中国・明朝の地理学者・鄭若曽は自著『籌海図編』で「倭好」(日本人が好むもの)を列挙。その一つに古書を挙げ、(日本人は)医学を重視しており、医書を見つけたら必ず買う、と記している。

日本で重視された中国の医書

 15世紀後半に公卿・一条兼良が編纂したといわれる往来物の『尺素往来』には、当時の医学の状態も詳細に記されている。医書として『和剤局方』、『千金方』、『簡易方』、『百一方』、『直指方』、『撰奇方』、『聖済総録』、『医方大成論』の八種が挙げられている。いずれも唐から宋・元代の中国の医書であり、これらが日本で重視されていたことを物語っている。

  中でも宋代の医薬品の処方集である『和剤局方』は、中世日本の医学の根幹を成した。公家・山科言継は、天文十九年(1550)閏五月三日以来、約10回にわたって一条邸での『医方大成論』の講読会に参加しており(『言継卿記』)、同書を熱心に研究していた。言継は、副業で医療にも従事していたことが知られる。

『啓迪集』と新たな医書

 医師・曲直瀬道三が元亀二年(1571)に著した『啓迪集』にも、64部の医書が引用されている。そこには先に挙げた『和剤局方』や『千金方』といった旧来から重視された医書だけでなく、室町期に田代三喜(道三の師にあたる)が日本に導入した金・元代の李東垣、朱丹渓一派の医術に関連する医書*1も多数含まれている。

 これにより、これまで主流であった『和剤局方』系統の医学(強力な作用を持つ薬で病気を攻撃する療法を主体とする)に対して、内臓を温存し強化することによって病気を治すべきとの考え方が日本で知られるようになった。

中国医書の出版

 戦国期には医書の輸入にとどまらず、輸入した医書の出版も行われるようになった。大永八年(1528)、泉州堺の阿佐井宗瑞は中国明朝の熊宗立が正統十一年(1446)に著した『医書大全』10巻を板刻して刊行。最新の医術も医書の輸入・刊行によって日本国内に導入されていたことがうかがえる。

参考文献

*1:『医学発明』、『蘭宝秘臓』、『東垣十書』、『丹渓心方』、『丹渓纂要』等