中世から近世にかけて、水銀は中国から大量に輸入されていた。室町期頃から発展した銅器製作の際の、鍍金料等として用いられた。
日本における水銀需要
銅器の鍍金としての水銀の使用は、東大寺大仏造立の際の使用をを代表例として、日本では古くから行われていた。平安期の『延喜式』にも、水銀使用の規定がみえる。
室町期には朝鮮や中国へ銚子、提子などの銅器が輸出されるようになる。さらに16世紀後半からは建築用金具、調度品として銅器製造が発展し、これに伴って水銀需要が急増していた。
日本への流入
16世紀中頃に中国・明朝で作成された『日本図纂』や『籌海図編』には、倭人の好むものとして水銀が挙げられており、「鍍銅器之用、其価十倍中国、常因匱乏、毎百斤価銀三百両」としている。当時、日本では水銀価格が中国の10倍に達し、需要に供給が追いついていないことが分かる。
また当時、スペインはメキシコで採掘される銀の精錬に必要な水銀を確保するため、マニラを経由して中国からの輸入を図っていた。しかし日本の水銀価格高騰により、入手が難航していることがマニラからメキシコに報告されている。
中国船とポルトガル船
中国船やポルトガル船も、日本への水銀輸出に関与した。『異国日記』によれば、慶長十四年(1609)七月、坊津に入港した明船の積荷に水銀がみえる。また17世紀初期頃のポルトガル人の商品目録によれば、毎年ポルトガル船が1万5000斤から2万斤の水銀を中国から日本に運んでいる。価格は199斤につき、銀900匁程度であったことが記されている。
参考文献
- 小葉田淳 「水銀の外国貿易・国内産出と産業発達の関係」 (『金銀貿易史の研究』 法政大学出版局 1976)