戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

朝鮮木綿 ちょうせんもめん

 室町・戦国期、日本に大量に輸入された朝鮮製の木綿。

朝鮮での木綿生産の始まりと普及

 朝鮮の木綿生産は14世紀後半、高麗・恭愍王の十三年、中国・元朝に送られた使者が木綿の種子を持ち帰ったことに始まるという。李氏朝鮮王朝が成立する同世紀末期には「綿紬」とともに「綿布」が「布貨」として用いられるまでに木綿が普及し始めていた。

日本への木綿移出の始まり

  当初、朝鮮木綿は日本側の遣使に対する王朝の回賜品として日本に入ってきた。早い例では応永十三年(1407)、「日本国王」の使者への回賜品の中に「青木綿」をみることができる。15世紀中頃になると、朝鮮での木綿の本格的な増産と日本側の需要を背景にして、賜物の中心は綿布となっていく。

増大する日本側の需要

 宝徳三年(1451)、島津貴久への回賜品として「綿布二千三百九十四匹」が支給された事例をはじめとし、室町幕府・伊勢政親や山名氏、京極佐々木氏、大内氏ら有力守護大名が朝鮮に使者を派遣して数千匹の「綿布」を求めている。その理由として京極氏は戦乱による兵衣不足を挙げていたことが『李朝実録』成化九年(1473)三月条にみえる。

 このような状況で文明七年(1475)に京倭館貿易と慶尚道浦所貿易で支給された綿布は計二万七八〇〇疋、翌年には三万七四二一疋にのぼるとされており、日本側の輸入量は増加の一途をたどっていた。

  特に16世紀、日本側が銀を持ち込むようになると、朝鮮側は貨幣でもある綿布の払底という危機に瀕する。1542年、「日本国王使」を名乗る僧・安心が銀八万両を持ち込んで買取りを要求してきた。この銀の綿布換算量は四十五万匹にものぼり、官の備蓄分で行う公貿易たけでは買取ることができなかった。

参考文献