戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鯨(関東) くじら

  小田原北条氏に仕えたこともある三浦浄心は、17世紀初頭に当時の世相を事細かに記録した『慶長見聞集』を著した。浄心によれば、関東における積極的な捕鯨は、文禄年間(1592-1596)に尾張から相模三浦に来た間瀬助兵衛という鯨突き名人が、鯨が多いのを見て銛と網を用いて鯨を突いたことにはじまるという。

寄鯨の利用

 浜に漂着した鯨の利用は、古くから行われていた。『吾妻鏡』には、貞應三年(1224)に鯨とみられる「大魚(其名不分明)」が大量に死に、三浦崎と六浦の間の海岸が座礁した死骸で充満するという出来事が記されている。鎌倉中の人々はこぞってこれを買い求め、家々でこれを煮て油を取ったため、異様な香りが巷に溢れたという。既に鯨肉を売買するシステムがあり、搾油の方法が広く知られていたことが分かる。

北条氏と寄鯨

 戦国期の関東では、北条氏による鯨の分配が行われていた。北条氏の当主氏政は雲見(静岡県西伊豆町)の領主・高橋氏から鯨を贈られた際に、次のようなことを述べている。鯨は北条氏に御用がない時は領主に下賜するが、御用の時は古来から公儀への納物なので、北条氏に上納すべきである。今回は「関東衆」に遣わすので、半分か三分の一を公儀(北条氏)に上納せよ、と。

 「関東衆」は北条氏に属していたり、同盟関係にある国衆。氏政は上納された鯨を彼らに分配するつもりであった。 こうした鯨の上納に関して、自分の代になって4、5回目のことであり、珍しいこととしている。この時期にはまだ関東では銛と網を使った捕鯨は行われていないので、海岸に漂着した鯨、いわゆる寄鯨(よりくじら)とみられる。また氏政は検使には及ばない、とも述べている。これは本来、寄鯨があった場合は検使を派遣すべき慣習があったことを示している。

乱獲の始まり

 その後、先述のように文禄年間にいたり、尾張から銛と網を使った捕鯨法が関東に伝えられる。『慶長見聞集』によれば、間瀬助兵衛が鯨を銛で突くところを見た関東諸浦の海人たちも銛と網を用意して鯨を突くようになった。このため、毎年100匹、200匹もの鯨が取られるようになり、それから24、5年経った今では鯨も絶え果てて1年にようやく4、5匹が取れる程度になってしまったという。

参考文献

  • 江後迪子 『信長のおもてなし 中世食べもの百科』 吉川弘文間 2007
  • 盛本昌広 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文間 2008
  • 森田勝昭 『鯨と捕鯨の文化史』 名古屋大学出版会 1994