戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

径山寺味噌 きんざんじみそ

 中世以降、紀伊国の湯浅などで生産されていた嘗め味噌。伝承によれば由良興国寺の開山・覚心が鎌倉前期に中国の南宋から伝えたとされる。

覚心が学んだ発酵食品

 覚心が南宋を訪れたのは慶長元年(1249)から同六年(1254)。中国五名山の一つ径山万寿禅寺(浙江省杭州)などで修行した。そのとき「径山寺味噌」の製法を覚えたといわれている。

 また一説では覚心は径山万寿禅寺で数種の「未醤」を、江蘇省鎮江の金山竜遊江寺で「金山寺鹹鼓」「黒豆鼓」「糖豆粥」の製法をそれぞれ学んだともいう。

製法

  「径山寺味噌」あるいは「金山寺鹹鼓」の中国での原形については、元の時代に書かれた『居家必用』という書物に「金山寺豆鼓法」が載せられている。また日本に伝わった径山寺味噌は、時代は下るが江戸中期に刊行された『和漢三才図会』に載せられた「径山寺未醤」の項にみることができる。

  両方とも、水を使わず、瓜など野菜の汁と食塩で麹を仕込むことが共通している。具として白瓜や茄子を大量に用い、生姜などの香辛料を加えている。

溜まり醤油

 この径山寺味噌に溜まった汁がおいしかったため、人々はこれを「溜まり」と呼んで珍重したという。これが溜まり醤油の原形といわれるが、特に裏付けとなる史料は現在のところ無い。

  ただ、1603年刊行の『日葡辞書』には「Tamari」の語が載せられて「非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」と記述されいる。径山寺味噌との関係は不明ながら、当時の日本に「溜まり」とよばれる味噌から取る液体調味料があったことは確認できる。

参考文献

和漢三才図会略 造醸類 (国立公文書館デジタルアーカイブ