戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

唐ミソ とうみそ

 奈良興福寺の子院、多聞院で作られていた発酵食品。鼓(くき)。大豆と麦から作る麹に塩と水を加えて作る。多聞院ではさらに、唐ミソを漉して「唐ミソノ汁」を採っていた。これが現代の醤油に通じる源流の一つであった可能性も指摘されている。

多聞院での醤類製造

 中世の多聞院では多くの醤類が製造されていた。『多聞院日記』(室町期から江戸初期までの多聞院歴代僧侶たちの日記)には、「醤」「ヒシオ」をはじめ「ナットウ」(糸引き納豆、干し納豆)や「ミソ」「吉ミソ」(豆味噌)、「大ハミソ」「大飯ミソ」(糠を入れてつくった味噌)、「コミソ」(粉味噌)などがみえる。「醤油」という単語も史料上初めて確認できる。

唐ミソとは鼓(くき)のこと

 「唐ミソ」もまた多聞院で作られた醤類の一つだった。いわゆる鼓(くき)、すなわち豆粒の形が半固体で残っている穀醤を指したとみられる。鼓は製造に手間がかかり、高価であったためか、中世以降は一般的な食品、調味料というより、嗜好品として扱われるようになった。また長期間保存できるため、兵糧としても珍重された。寺院でよく作られたため、「寺納豆」*1ともよばれた。

 多聞院ではこの「唐ミソ」(鼓)を毎年大量に製造していた。院の名物だった可能性が指摘されている。また唐ミソを漉しとると、ドロドロで粘り気がある茶褐色または暗褐色の濁った液が残る。これをさらに布などで漉して精製したものを「唐ミソノ汁」と呼び、液体調味料として常備していた。『多聞院日記』永禄九年(1566)五月二十五日の記事には「タウミソノ汁(唐ミソの汁)、中御門へコレ遣ハス」とあり、院内での消費だけでなく贈り物にも使われていた。

多聞院での唐ミソ製造

 『多聞院日記』永禄八年(1565)七月の記事に唐ミソの製法がみえる。この時の唐ミソの材料は大豆五斗、麦五斗(大麦、小麦半々)、塩五斗。水一石四斗二升を入れ、七月二十二日に麹を寝かせ、二十九日に仕込んだ

 仕込み水が非常に多いことが特徴で、穀類の1.42倍にも及ぶ。他の記事も参照すると多聞院では穀物の1.5倍がふつうだったらしい。現代の濃口醤油でさえ、真水で1.0倍、塩水で1.0〜1.3倍程度といわれる。この配合からは、多聞院では「唐ミソノ汁」を採ることをきわめて重要視していたことがうかがえる。

火入れの技術

 多聞院では「唐ミソノ汁」の防腐のため、火入れを行っていた。『多聞院日記』天正十年(1588)閏五月七日に「唐ミソノ汁カフル間、カエラカシ了、二斗余在之」(「唐ミソノ汁」が黴(かび)たので、加熱して沸騰させた。二斗あまりある)とある。

 唐ミソの仕込みの時期は六月末頃なので、ここで火入れした「唐ミソノ汁」は今年の製品ではない。昨年秋かそれ以前につくり、半年以上保存してきたものとみられる。

 ちなみに『多聞院日記』には、酒の火入れを行った記事もみえる。永禄十一年(1568)六月二十三日に「第一度 酒煮サセ樽ヘ入了。」(酒を第一回の火入れをして、樽に入れ終えた)とある。酒の火入れについては、世界最古の記録といわれる。

唐ミソ二番

 『多聞院日記』には、「唐ミソ二番」という液体調味料も登場する。現代の「白醤油」に近いものという。材料は大豆の煮汁、米麹、食塩、および水だけ。強力な発酵力を持つ米麹が主原料であり、気温が低くて発酵食品製造には不向きな真冬や春先でも作られている。

醤油のルーツ

 江戸期の貞享元年(1684)に刊行された『雍州府志』*2「醤油」の項には、鼓汁のことを俗に醤油といっている、とある。「醤油」とは「鼓汁」の別名であり、少なくとも鼓汁から発達したものであるとの認識が当時の人にあったことが分かる。

 多聞院では唐ミソの製造過程で大量の水を加え、鼓汁である「唐ミソノ汁」の収量増大をはかっていた。仕込み水を増やす過程で、現代の醤油製造に欠かせない醪(もろみ)の攪拌が始った可能性も指摘されている。

参考文献

*1:京都の「大徳寺納豆」、静岡の三ヶ日町の「大福寺納豆」、浜松の「法林寺納豆」などが知られる。

*2:山城国の精密な地誌。著者は医師、黒川道祐