戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

「醤油」(興福寺多聞院) しょうゆ

 奈良興福寺の子院、多聞院で作られていた液体調味料。『多聞院日記』の永禄十一年(1568)十月二十五日の記事にみえる。現在の「醤油」と同じ文字の単語がみえる早い例。

『多聞院日記』の記事

 永禄十一年(1568)十月二十五日の記事に「長因坊へ羅漢供ニ徳利・醤油持出了」とある。また「醤油」と同じものを指すとみられる「正ユウ」という単語もあり、天正十年(1582)八月二十三日の記事に「十後ヨリ梅ツケ正ユウ取二来、遣、四百五十七了」とみえる。いずれも「醤油」を、興福寺の別の子院や僧侶に渡したという記録である。

「醤油」の正体

 この『多聞院日記』にみえる「醤油」は、多聞院で毎年大量に作られていた「醤」(ひしお)から採った汁と推定されている。多聞院には「簀」(す)が常備され、「唐ミソ」の豆粒を漉すのに使われていた。同様に簀を用いて「醤」から「醤油」を採ったものとみられる。

 なお室町期の辞書『運歩色葉集』には、「簀立(すだて) 味噌汁立簀取之也」とある。味噌の汁を簀を立てて採るということが、以前から行われていたことが分かる。

多聞院の「醤」

 『多聞院日記』永禄八年(1565)七月の記事には「醤 大麦三斗、マメ九升、塩九升、水二斗四升入了」とあり、多聞院における「醤」の製法を知ることができる。穀物の比率は大麦77%、大豆23%であり、大麦が圧倒的に多い。

白醤油との類似性

 現代の白醤油について、JASの規格は「しょうゆのうち、少量の大豆に麦を加えたもの又はこれに小麦グルテンを加 えたものをしょうゆこうじの原料」とするものと定義している。大麦と小麦の違いはあるが、多聞院の「醤油」は白醤油に近いものであった可能性が高い。

 しょうゆ情報センターのサイトによれば、白醤油は淡い琥珀色で、味は淡泊ながら甘味が強く、独特の香りがあるとのこと。色の薄さと香りを生かした吸い物や、茶わん蒸しなどの料理のほか、せんべい、漬物などにも使用されるという。

参考文献

多聞院日記 第2巻 国立国会図書館デジタルコレクション