戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

国友筒 くにともづつ

 近江国北部の国友村で製造されたか、または国友出身の鉄炮鍛冶によって製造された鉄炮。 天文十二年(1543)の鉄炮伝来後、かなり早い段階から製造が開始された。特に16世紀末から元和元年(1615)の大坂戦役にかけての時期には、徳川氏や諸大名の注文を受けて大量の国友筒が製造された。

国友での鉄炮製造のはじまり

  近世に編纂された国友鍛冶の由緒書である『国友鉄炮記』によれば、天文十三年(1544)八月、将軍・足利義晴から預かった見本の鉄炮を基にして2挺の鉄炮を完成させたとしているが、これには疑問も多い。

 確かな史料では、越前朝倉氏の家臣・一源軒沙門宗秀が出羽の下国愛季に宛てた書状に、宗秀が脇差などとともに「鉄炮一挺国友丸筒」を愛季に進上したことが記されている。この書状の時期は、天文二十二(1553)年から弘治元年(1555)頃とみられる。この時期には国友筒の製造が始まっており、朝倉氏に提供されていたことが分かる。

権力者に仕える国友鉄砲鍛冶

  戦国末期、畿内に進出した織田氏にも国友筒は供給されていた。『信長公記天正七年(1579)八月六日条には、鉄炮屋(国友)与四郎が私宅や資財とともに知行100石を没収されていたことが記されている。

 また天正二年(1572)には羽柴秀吉が国友鍛冶の藤二郎に知行100石を与えて「鉄炮の儀」を求めている。これらは信長や秀吉の鉄炮確保の手段であるとみられ、この需要の中で国友筒の製造体制も整っていったと思われる。

参考文献

  • 宇田川武久 「軍拡に生きた鉄炮鍛冶」(松木武彦・宇田川武久 編『人類にとって戦いとは2 戦いのシステムと対外戦略』) 東洋書林 1999