戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

堺筒 さかいづつ

 堺の鉄炮鍛冶によって製造された鉄炮

堺における鉄炮製造

 堺における鉄炮製造の開始時期は、諸説ある。史料上の初見は、ルイス・フロイスが記した『日本史』の永禄八年(1565)の「堺で製造された粗末な小銃」(別約では「簡単な火縄銃」など)という記述とされる。

 ただ、天文二十二年(1553)五月、将軍・足利義輝上野国横瀬成繁に贈った鉄炮は「南方」の鍛冶によって製作されてものだった。この「南方」が『信長公記』などの用例から大坂方面に比定できることから、堺における鉄炮製造はこの時期にまで遡ることもできる。

 また明の嘉靖三十五年(1556)に日本に派遣された鄭瞬功が著した『日本一鑑』には、「手銃」の製作地として坊津平戸、豊後とともに和泉が挙げられている。和泉とは具体的には堺を指していたと考えられる。

織田氏への軍需物資供給

  元亀元年(1570)六月の姉川合戦時、織田氏部将・木下秀吉の指示を受けた堺の有力商人・今井昨夢斎(宗久)は良質の鉄炮薬30斤と焔硝30斤を調達している。織田氏は堺を支配下において、同港を火薬など軍需物資の供給地としていた。堺筒も、織田氏に供給されたものと思われる。

遠隔地への販路

  一方、堺筒織田氏以外の勢力や、遠隔地にも運ばれていた可能性がある。 近世上杉家の史料である「鉄炮一巻事」によれば慶長九年(1604)前後、奥州米沢に和泉堺の松右衛門が鉄炮を携えて訪れており、そのまま上杉家に仕官して鉄砲製造にあたっている。つまり、松右衛門は鉄炮鍛冶と同時に鉄炮商人の性格を持っていたといえる。戦国期においても彼のような商人的性格の鉄炮鍛冶が全国各地に堺筒を販売していたことも考えられる。

関連人物

参考文献

  • 宇田川武久 「軍拡に生きた鉄炮鍛冶」(松木武彦・宇田川武久 編『人類にとって戦いとは2 戦いのシステムと対外戦略』) 東洋書林 1999

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堺に残る江戸期の旧鉄砲鍛冶屋敷。