戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

豊後筒 ぶんごづつ

 豊後国で製造された鉄炮豊後国は刀剣の生産地としても知られ、鉄炮製造のための技術的・資源的な素地に優れていた。

豊後への鉄炮技術移入

 速水郡日出の鍛冶・伊藤祐益は天文十五年(1546)、種子島に渡って十年間修業した後、大友宗麟鉄炮鍛冶として仕えたといわれる。鉄炮伝来の地である種子島系の技術が、豊後に移入されていたことがうかがえる。また豊後にはポルトガル船が直接来航しており、ポルトガル人から直接的に技術を導入できる環境にもあった。

豊後における鉄炮製造

  永禄二年(1559)正月、大友宗麟は前年閏六月に足利義輝から貸与された鉄炮の複製を献上しており、豊後における鉄炮製造が確認できる。一方、弘治元年(1555)から2年間日本に滞在した鄭舜功は、帰国後に記した『日本一鑑』の中で手銃の生産地の一つとして豊後を挙げている。製造開始時期は、永禄二年以前に遡る可能性がある。

 メンデス・ピントも『東洋遍歴記』の中で、「1556年に日本人が断言したところによれば、この王国の首府である府中の町には三万挺以上の鉄砲があった」としている。誇張があった可能性を差し引いても、豊後府内には相当な数の鉄炮が集積されていた。

戦争に投入される鉄炮

  永禄七年(1564)、大友氏は豊前・門司をめぐって毛利氏と合戦になった。『大友記』によれば、このとき千二百挺(『陰徳太平記』では数百挺)を投入しており、かなりの量の鉄炮が大友軍に配備されていたことが分かる。この合戦直前の永禄六年(1563)十二月、大友氏の加判衆は連署の下知状で、三重郷の甲斐本鍛冶に鉄炮製作を命じ、その際、「炭・地鉄」を支給するとしている。

 豊後の国東半島は鉄の産地として知られており、大友氏はそのような資源を管理、供給することで、鉄炮製造もまた管理していたことがうかがえる。

参考文献