戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

イルカ いるか

 イルカは小型の鯨類であり、日本近海にも生息するため、古くから(考古学上では縄文期にも遡るといわれる)利用されてきた。中世、珍重された食材の一つであり、贈答品や饗応の際にも用いられた。 

神様からの贈り物

 『古事記』中巻には、神功皇后の太子が、現在の敦賀市あたりでイザサイザサワケノオオカミノミコトから贈り物としてイルカを賜ったという記述がある。鼻が傷ついたイルカが浦一面に集まっており、太子は食糧を頂いたことを神に感謝している。漂着したイルカ(あるいは鯨)が神からの贈り物として感謝の対象であったことが推測されている。

イルカ漁

  中世に入ると、網を用いた積極的なイルカ漁も行われるようになる。 肥前五島の豪族・青方氏が伝えた中世文書である「青方文書」には、「かつおあみ、しびあみ、ゆるかあみ、ちからあらばせうせうは人おもかりそうらいてしいだしてちぎょうすべし」の記述がある。遅くとも14世紀には、網(「ゆるかあみ」)を使ったイルカ漁が行なわれていたいたことが窺える。

高級美物

  さらに室町期には饗応の献立や贈答品としても、イルカが記録にみえるようになる。『庭訓往来』五月返状には、賓客をもてなす品の一つとして「干江豚(いるか)」が挙げられている。『看聞日記』では正長二年(1429)、六代将軍足利義教から伏見宮へ美物として贈られていることがみえる。

 その他にも『親元日記』の文明九年(1477)にいるか二十切れ、『言継卿記』には弘治二年(1556)十二月三十日には歳暮としてか、ごぼうと一緒に贈られている。

イルカ料理

 イルカが実際の饗応に用いられた記録は少ないが、明応九年(1500)三月五日、周防山口の大内義興足利義稙をもてなした際の献立には「御汁いるか」がみえる(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)。

 鯨は多くの場合、鯨汁として食べられている。イルカも同様に汁として料理されることが多かったと思われる。

博多で食べられたイルカ

 博多の中世遺構からは多くの獣骨が出土しているが、イルカの骨も出土している。玄界灘のイルカが何らかの方法で捕獲され、盛んに食べられていたことがうかがえる。特に13世紀から出土量が増加し、14世紀中ごろには他の哺乳類を圧倒する。イルカ類の出土増加の理由は諸説あるが、大量捕獲のための丈夫な網が開発されたことも一因といわれる。

 またイルカの頭蓋骨は、土坑の底から頭蓋骨だけで出土することが多い。道路側溝を部分的に深く掘り下げてイルカの頭骨を埋めている例もあり、祭祀に用いられたと考えられている。このイルカは埋める前に後頭部が割られており、事前に脳が取り出されていた。

参考文献

  • 江後迪子 『信長のおもてなし 中世食べもの百科』 吉川弘文館 2007
  • 森田勝昭 『鯨と捕鯨の文化史』 名古屋大学出版会 1994
  • 屋山洋 「獣骨から見た人々の暮らし」(大庭康時・佐伯弘次・菅波正人・田上勇一郎・編 『中世都市 博多を掘る』 有限会社海鳥社 2008