戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

平野石 ひらのいし

 山口県周南市四つ熊ヶ岳周辺より産出する安山岩。中世から近世初頭にかけて山口県内でもっとも広く分布し、また最も多く利用された石材。正式名称は黒雲母角閃石安山岩。色調は灰白色を呈し、風化で灰褐色となる。石質は軟質で非常に加工に適しており、古くは弥生時代から紡錘車の材料として利用され、古墳時代には石室、石棺材としても使われた。

平野石製石造物の増加

 鎌倉期以降、平野石を使用して五輪塔、宝篋印塔、無縫塔、板碑、石仏など様々な石造物が製作された*1。鎌倉期から南北朝期の平野石製石造物は、地方色があるものの、その形態的特徴から九州地方の影響を受けたと考えられるものが多いという。

 15世紀後半から16世紀前半に至って平野石製石造物は急激にその造立数が増加する。また大きさは小型化し、形態も形骸化、簡素化していく傾向がみられる。生産の拡大に伴い、粗悪な製品の量産がすすんだ可能性も指摘される。

分布からみる流通

 平野石製石造物は、特に産出地である周南市を中心とする地域は、最も多く残る。旧国名では周防国に集中する一方、長門国には非常に少ない。理由の一つとして、平野石の石工集団が、産出地周辺を拠点としていたと考えられる。また長門国には砂岩や安山岩(鍋山石、笠山石)、大理石などの石材が産出し、それぞれの地に石工集団もいたため、販路が伸ばせなかった可能性もある。

 16世紀以降、平野石は安芸国西部*2石見国西部*3伊予国西部にも流通する。なお安芸国厳島広島県廿日市市宮島)の大聖院にある平野石製石幢の竿部には、寄進者の名前とともに天正七年(1579)の年号と「大工周防国都濃郡 富田保平野村次郎右衛門尉」の石工銘が刻まれている。中世の平野石石工についての、数少ない事例の一つとされる。

 伊予国では高縄半島西部から佐田岬半島の、比較的海岸沿いに多く分布している。紀年銘で早いものでは大宝寺宝篋印塔(愛媛県久万高原町)の享禄三年(1530)や、高雄神社宝篋印塔(愛媛県砥部町)の天文三年(1534)がみられる。少なくとも16世紀前半頃から入ってきたとみられる。

 平野石産出地付近には、「兵庫北関入船納帳」にもみえる要港・富田がある。安芸国伊予国には海路で製品が運ばれたことが推測される。

参考文献

  • 内田大輔「山口県から来た石造物」(市村高男・黒川信義・高嶋賢二 編『石造物が語る中世の佐田岬半島-運び込まれた各地の石材-』 岩田書院 2011)

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陶興明供養塔。山口県周南市龍豊寺にある一石型の平野石製宝篋印塔。明応四年(1495)の紀年銘がある。

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広島県廿日市市洞雲寺の伝陶晴賢墓塔。

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大神地蔵板碑。周南市にある平野石製の板碑。銘文から応安三年(1370)、念阿の供養のために建立されたものであることが分かる。

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浄真寺五輪塔(左)と浄真寺板碑(右)。どちらも平野石製で製作は鎌倉中期頃と推定されている。

*1:在銘で早期の例としては、護国寺笠塔婆(防府市)の貞永元年(1232)銘など。

*2:広島県廿日市市洞雲寺の伝陶晴賢墓塔、広島県広島市佐伯区五日市国泰寺の開山無縫塔など。

*3:島根県津和野町瀬戸山城跡の下瀬頼重墓塔、島根県吉賀町誓立寺宝篋印塔など。