伊豆国口野郷の港町・江浦の問屋商人。戦国期、駿河東部の国人領主・葛山氏のもとで、江浦の支配にも関わった。弘治三年(1557)三月二十四日付の葛山氏元判物の宛先に、その名がみえる。
江浦の支配に関わる
この葛山氏元の判物には、口野郷江浦に着岸した伊勢船やその他の小舟に対する諸商売の横合(妨害)を禁じること、ならびに「問屋之儀」についても申付けることなどが記されている。善左衛門尉が葛山氏のもとで、江浦での商売や問屋を支配する商人頭のような役割を果たしていたことがうかがえる。
氏元は善左衛門尉に、同氏の江浦代官への礼銭の納入も命じている。一方で「役」が賦課された場合や、今回の判物で命じたことについて代官や百姓がとやかく言ってきた場合には自分に相談するようにも命じている。善左衛門尉が葛山氏に直属する、重要な存在であったと考えられる。
廻船業を営む
この判物が収められていた「久住文書」には、元亀二年(1571)十一月、徳川家康が久須美土佐守に宛てて分国中の諸浦において船一艘の諸役を免除することを記した朱印状が含まれている。
この久須美土佐守は楠見善左衛門尉と同一人物か、もしくは一族とみられ、楠見氏が江浦を拠点にして徳川分国の遠江や三河においても廻船業を営んでいたことがうかがえる。