戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

橘屋 又三郎 たちばなや またさぶろう

 堺の貿易商人。鋳物師。種子島より鉄砲の技術を堺に持ち帰ったといわれる。

種子島から堺に鉄炮を伝える

 慶長十一年(1606)頃に禅僧南浦文之玄昌が著した『鉄炮記』に橘屋又三郎についての記述がある。これによると和泉堺の「商客之徒」(商人)である橘屋又三郎という者が種子島に一、二年留まり、その間に鉄炮を熟知した。堺に帰ってからは、人々は彼を「鉄炮又」と呼んだ。以来畿内の人々は皆鉄炮を学び、関西だけでなく関東へも鉄炮が広がっていったという。

 種子島への鉄炮伝来が天文十二年(1543)とすれば、その数年後、橘屋又三郎が鉄炮の製作技術を堺に伝えたことになる。

堺の鋳工として実在

 橘屋又三郎は別の確かな史料からも、存在を確認することができる。『紀伊国金石文集成』には、金剛宝寺和歌山市紀三井寺)にあった天正三年(1575)製作の梵鐘の銘が載せられているが、そこに「那賀郡堺鋳工橘屋又三郎」と記された箇所がある。

 堺の橘屋又三郎は、紀伊国の寺に鐘を納めていた。橘屋又三郎は鉄炮以外に梵鐘のような金属製品も扱っていたのだろう。また「鋳工」となっていることから、又三郎は堺に元来いた、丹南鋳物師のような鋳物師の一人だった可能性も指摘されている。

 『鉄炮記』の成立は鉄炮伝来から60年以上も後のことであり、また種子島の領主・時尭を顕彰するために作成された側面があるので、内容を全面的に信じることはできない。ただ、橘屋又三郎は実在の人物であり、鉄炮伝来以前から堺の商人は種子島、そして琉球を経由して海外との貿易を行っていた。このことから、鋳物師でもあった又三郎が種子島鉄炮製造技術を身につけて帰ったとして不思議はないと思われる。

参考文献

  • 太田宏一 「堺鉄炮鍛冶と紀州」(国立歴史民族博物館・宇田川武久・編 『鉄炮伝来の日本史 火縄銃からライフル銃まで』 吉川弘文館 2007)