戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

太刀「来太郎」 らいたろう

 備前刀。「来太郎源国俊」の銘をもつ。永禄七年(1564)、小早川隆景厳島神社に寄進した。

来国俊の銘

 太刀の茎(なかご)には「劔来太郎源国俊」の銘があり、「弘安八年乙酉正月十五日」と刻まれている。来国俊は鎌倉中期頃に活躍した京都刀工であるが、この「来太郎」は作風から恐らく室町初期を下らない備前刀工の作とみられている。

厳島神社の宝物避難

 天正十年(1582)四月、来島村上氏の離反を受けて、厳島社寶蔵から宝物を桜尾城に移した際に作成された「厳島社宝蔵宝物預ヶ注文」には、「来太郎 小早川殿 御寄進」とある。この太刀が「来太郎」と呼ばれていたことが分かる。

吉田兼右、来太郎を所望

  厳島社家・野坂房顕が記した『覚書』には、「来太郎」についてのエピソードがある。元亀二年(1571)十二月、厳島社の遷宮の儀のために京都・吉田社から吉田兼右が招かれて厳島社に下向する。このとき、房顕は毛利元就との確認通りに厳島大明神からの引出物として寶蔵から太刀「菊作」と刀「長谷部国重」を兼右に贈った。しかし兼右は、隆景が奉納した「来太郎」の太刀を所望して先述の刀を返してきた。

 これに対し、厳島社側は「御鬮(くじ)」で神慮をうかがったが、おりなかったため、結局寶蔵の太刀は一振も贈られることはなく、かわりに房顕から太刀や刀が進上されることになっている。このあたり、当時における「来太郎」の評価がうかがえる。

 厳島社は兼右の要求に対して鬮を引き、神慮という形式をとって婉曲に断っているが、厳島社は他の刀請出し要請に対しても、このような断り方を何度か用いている。