戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

3.人物

江良 昌泰 えら まさやす

陶氏被官。官途名は但馬守。陶興房の嫡子・興昌の偏諱を受けたとみられる。興昌死後は、興房の跡を継いだ隆房に仕え、奉行人として安芸国や周防国の支配に関わった。

渡邊 宗覚 わたなべ そうかく

豊後大友氏に仕えた石火矢技術者。仮名は三郎太郎。子に三郎右衛門、茂右衛門。主家滅亡後、徳川家康に召し出され、石火矢の鋳造を行った。

梨子羽 景運 なしわ かげゆき

沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。仮名は又次郎。官途名は中務丞。平賀興貞の子で、同広相の弟。梨子羽康平の養子となって梨子羽氏の跡を継いだとみられる。小早川家中の上位にあり、出雲、伊予、備中などでの軍事活動が確認できる。

梨子羽 康平 なしわ やすひら

沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。官途名は刑部少輔、後に備後守か。小早川敬平の三男で扶平の弟。譜代被官の真田氏や一族の船木常平らとともに惣領家を支えた。

クリスティアン・スクローテン Christian Sgrooten

16世紀後半、クレーヴェ公国のカルカーを拠点に活動した地図製作者。スペイン王フェリペ2世の国王地理学者の一人として活動し、代表作として「アトラス・ブリュッセル」と「アトラス・マドリード」という二つの地図集を遺した。

門司 日向守 もじ ひゅうがのかみ

大内家臣。天文十六年(1547)の遣明使節の一号船に「御用人衆」の一人として参加。北京に赴き、大内氏が調えた進貢物を明朝の礼部に納めた。

雲峰 等悦 うんぽう とうえつ

室町期の画家。雪舟等楊の弟子。丹波国の出身で、子に季英周孫という画僧がいた。

上原 宗安 うえはら むねやす

備後国世羅郡大田庄上原を本拠とする国人・上原氏の家臣。上原元将(元祐)の側近とみられ、織田方の羽柴秀吉との交渉を担当した。後に京極氏に仕えた。

楊井 虎女 やない とらめ

毛利家臣・楊井武盛の息女。元亀三年(1572)に父から所帯を譲られている。夫は楊井春俊、子は楊井規春か。

楊井 武盛 やない たけもり

大内家臣。幼名は万壽。仮名は彌七。官途名は右京亮、後に但馬守。楊井国久の次男だが、楊井春盛の養子となってその跡を継いだ。主家滅亡後に仕えた毛利家中では、その医術の評価が高かった。

警固屋 善兵衛 けごや ぜんのひょうえ

安芸国安南郡警固屋(現在の呉市警固屋)を本拠とした警固屋氏の一族か。弘治二年(1556)以前に周防国熊毛郡に知行を得ていた。警固屋氏は防芸引分で大内方となり、大内氏の最終局面まで従っている。

杉 甲斐守 すぎ かいのかみ

大内家臣。周防国玖珂郡日積村に知行を得た杉氏の一族か。永正・大永年間に安芸国石道本城に入り、厳島神領支配の一角を担った。天文十七年(1548)には、備後国神辺村尾城攻めの検使として弘中隆兼、小原隆言とともにみえる。

吉井 行貞 よしい ゆきさだ

大内家臣。官途名は蔵人。周防国大島郡屋代庄の土豪か。大内氏の警固衆として活動した。厳島合戦前後に急死したらしい。

高崎 六郎次郎 たかさき ろくろうじろう

沼田小早川氏の庶子家である高崎氏の当主か。応仁文明の乱では、東軍方の惣領家に従わず、西軍の周防大内氏の援軍とともに高崎城に立て篭もった。

土倉 民部少輔 とくら みんぶのしょう

沼田小早川氏の庶子家である土倉氏の当主か。官途名は民部少輔または民部大輔。15世紀中ごろから後半にかけて、沼田小早川氏の軍事行動で活躍した。

大草 持範 おおぐさ もちのり

沼田小早川氏の庶子家である大草氏の当主。官途名は駿河守。沼田新荘の大草村(現在の広島県三原市大和町大草)を所領とした。同地の堀城および高城は大草氏の城と伝わる。

フェルナン・メンデス・ピント Fernam Mendez Pinto

東南アジア・東アジアで活躍したポルトガル人海商。後にイエズス会士となる。ポルトガルへ帰国後、自身の「体験」をまとめた『東洋遍歴記』を著した。

陳 瑞 ちん ずい

中国徽州出身の海商・方三橋の貿易船の乗員。1548年(天文十七年)五月、日本から明国に戻った際、明軍に捕縛された。船には中国人とともに20名の日本人が乗っており、ヨーロッパ人から奪った仏郎機砲などの火器も搭載されていた。

池端 重尚 いけばた しげひさ

大隈国祢寝院の領主・池端清本の嫡孫。弥次郎。父は清住。「唐人」と「南蛮人」の合戦に巻き込まれて不慮の死を遂げた。

稽天 けいてん

薩摩国薩摩郡東郷(現在の鹿児島県薩摩川内市東郷町)出身の日本人海商。東郷の国人領主・東郷氏の被官か。1548年(天文十七年)三月に貿易のために双嶼に向かうも、明軍に拿捕された。彼の供述により、日本人が中国での密貿易に関わる経緯の一端が明ら…

李 章 り しょう

中国福建・泉州府同安県出身の貿易商人。16世紀中頃、銀貿易の為に日本に向かう途中、朝鮮に漂着した密貿易船の「頭人」の一人。李章らの密貿易船は、100人以上が乗船する大型ジャンク船であり、乗員の多くが福建の海商たちであったとみられる。

李 王乞 り おうきつ

中国福建の漳州出身の貿易商人。16世紀中頃、銀貿易の為に日本に向かったが、朝鮮に漂着して捕縛され、明朝に送還された。朝鮮政府にとっては、日本・福建間の密貿易活発化を認識する契機となった。

楊 三 ようさん

広東虎門出身の中国人。クリスチャンで、洗礼名はペドロ。東南アジアに密航した後、ポルトガル船の船員として広州に来航した。火薬や大砲の製法に通じ、明朝の仏郎機砲導入に大きな役割を果たした。

今倉殿 いまくら どの

備後南部、芦田川河口部の港町草戸を拠点とした金融業者。草戸千軒町遺跡から出土した15世紀後半の木簡にその名が見える。

工 十郎兵衛 たくみ じゅうろうひょうえ

安芸国安北郡深川の檜物師。毛利元就から「佐東領中檜物師」の頭領に任じられた。

長崎 房康 ながさき ふさやす

大内家臣。幼名は道祖寿丸。仮名は小太郎。官途名は兵部丞。長崎元康の子。事秀の父。自身と同じ屋代島衆の沓屋景頼に嫁いだ妹がいる。毛利氏の出雲侵攻の際、警固衆として活躍した。

長崎 房次 ながさき ふさつぐ

大内家臣。仮名は小太郎。官途名は隼人佐、後に丹後守。長崎安親の子。元直、但馬守某、真定の父。娘が二人おり、沓屋景頼の子の喜三郎・元綱兄弟に嫁いだ。厳島合戦後に屋代島衆をまとめて毛利氏に仕え、防長経略や豊後大友氏との合戦で警固衆として活躍し…

長崎 元康 ながさき もとやす

大内家臣。幼名は才徳丸。仮名は弥八郎。官途名は与三右衛門、後に左近将監。長崎安親の養子。房康の父。沓屋景頼の妻となった娘がいる。大内氏の合戦で警固衆を率いて活躍したが、天文十二年(1543)、出雲遠征において討死した。

長崎 勝親 ながさき かつちか

大内家臣。仮名は小太郎。官途名は勘解由左衛門尉。周防国大島郡島末庄を本拠とする長崎氏の当主。盛親の子で、重親の孫にあたる。

長崎 重親 ながさき しげちか

大内家臣。官途名は隼人佐、後に丹後守。盛親の父。周防国大島郡島末庄を本拠とした。大内盛見死後は、持世に味方してその勝利に貢献した。