戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

1.都市-02.中国地方

沼田市 ぬたいち

沼田川河口部の自然堤防上に形成された市場(市庭)町。埋立てが行われる以前、沼田川河口部には入海が深く入り込んでいたという。南北朝期以降、沼田小早川氏の支配がおよんだ。

忠海 ただのうみ

大崎上島、大久野島の山陽側対岸に位置する港町。中世、沼田小早川氏の一族・浦氏の本拠地。瀬戸内海航路の中継港としても栄えた。

高崎 たかさき

瀬戸内海航路において、山陽沿岸航路と防予諸島内を突っ切る沖乗り航路の分岐点に位置した港町。 瀬戸内海の重要な寄港地であるとともに、周辺地域における造船を含めた水運活動の拠点となった。

三津 みつ

安芸国三津川河口部の港町。現在の広島県東広島市安芸津町。室町期は三津村、風早村、木谷村の三ヶ村が「三津三浦」あるいは単に「三津村」と称されて一体のものと認識されていた。古くから風待ちの港として知られ、中世は竹原小早川氏の外港ともなった。

田万里 たまり

旧山陽道の市町。東西条四日市と本郷・三原の中間に位置し、江戸期には間宿(あいのしゅく)として栄えた。現在の広島県竹原市田万里町。

白市 しらいち

安芸国高屋盆地東端に位置する市町。現在の広島県東広島市高屋町白市。国人領主平賀氏の拠城・白山城の城下町ともなった。急な坂道に沿って町場が形成されている。坂の上に元暦元年(1184)創建と伝えられる養国寺があり、元々は同寺の門前町であったと…

西条(四日市) さいじょう

安芸国中央部の西条盆地に位置する市場町。古代以来、安芸国の中央部と東部沿岸地域を結ぶ山陽道の要衝にあった。

倉橋 くらはし

安芸灘に浮かぶ倉橋島の南岸に位置した港町。古代以来の瀬戸内海航路の寄港地として、また中世には海賊衆・倉橋多賀谷氏の本拠として栄えた。

瀬戸 せと

広島湾に東の玄関口にあたる音戸の瀬戸に臨む港町。音戸の瀬戸は平安末期に平清盛が開削事業を行ったといわれ、古くから海路の要衝にあった。

呉 くれ

広島湾の東の関門である音戸瀬戸を扼す地点に位置する港町。中世、水軍・呉衆の拠点となった。

仁保嶋 にほじま

中世、広島湾東岸沖に浮かんでいた仁保嶋の港町。安芸国の大河川である佐東(太田)川と瀬野川の河口部の沖に位置する。戦国期には、広島湾水上交通と瀬戸内海航路を抑える要衝として激しい攻防が繰り広げられた。

戸河内 とごうち

安芸国西部を貫流する太田川と、同国吉田方面から流れる根の谷川の合流地点に位置する市町。両河川流域と瀬戸内海を結節する、河川水運の要衝として栄えたとみられる。

可部 かべ

安芸国西部を貫流する太田川と、同国吉田方面から流れる根の谷川の合流地点に位置する市町。両河川流域と瀬戸内海を結節する、河川水運の要衝として栄えたとみられる。

堀立 ほたて

安芸国中央部を貫流する佐東大田川河口に位置した港町。安芸国内陸と瀬戸内海とを結節する役割を担って栄えた。現在の広島県広島市安佐南区祇園のあたり。

廿日市 はつかいち

広島湾の西岸の港町。周防から安芸にいたいる山間部と沿岸部のルートが合流する陸路の要衝に位置する。厳島神主家の居城・桜尾城が北東部にあり、その城下町的性格もあった。安芸国西部の中心的物資集散地として発展した。

地御前 ちのごぜん

厳島の対岸に位置する厳島神社外宮・地御前神社の門前町。同じく対岸に位置する廿日市とともに、瀬戸内海の要港・厳島と安芸国西部を結節する役割を担った。

厳島 いつくしま

広範な信仰を集める安芸一宮、厳島神社の門前町。各地から参詣者や商人が来航し、瀬戸内海の要港として繁栄した。

玖波 くば

安芸国佐西郡の広島湾岸に位置する港町。現在の広島県大竹市玖波町。山間部から切り出される木材などの山林資源の積出港として栄えた。玖波の地名も貯木場を意味する「木場」が語源であるといわれる。

大原 おおはら

美作から備前を南北に貫流する吉井川の支流・吉野川の上流部に位置した市庭町。中世、同河川水系の水運と結節して、高野山金剛三昧院領大原保(大原荘)の経済的中心を担ったと思われる。

戸川 とかわ

美作国の津山盆地中心部に位置した市町。中世、同国の経済拠点の一つとして栄えた。近世の城下町・津山の中核となったとみられる。

塩湯 しおゆ

美作国・吉野川沿いに位置する宿場町。現在の岡山県美作市湯郷。中世、温泉町として、また美作の勝田郡と備前を結ぶ街道の要衝としても栄えた。

伊部 いんべ

備前国の片上湾に臨む港町。中世、皇室領香登荘と、その西方約五キロにある吉井川流域の物資集散港となった。また室町・戦国期に西日本全域で使用された備前焼の生産・流通拠点としても栄えた。

福岡 ふくおか

吉井川の下流が山陽道と交差する水陸交通の要衝に形成された市場町。中世、穀倉地帯であった福岡荘や香登荘など周辺荘園や美作など吉井川上流地域の物資集散地となって栄えた。

牛窓 うしまど

瀬戸内海に面した備前国邑久郡の港町。前面の前島、後背の阿弥陀山によって大風から守られた天然の良港であり、中世、瀬戸内屈指の水運基地として栄えた。

西大寺 さいだいじ

吉井川の中世における河口部に位置する西大寺の境内に形成された門前町。周辺経済の中心を担う市庭町として栄えた。元亨三年(1323)の史料には「市津」としてみえ、港町でもあったことが分かる。

吉備津 きびつ

備中国一宮・吉備津宮(吉備津神社)の門前町。大平山と吉備中山に挟まれた吉備路の回廊部に位置する。備中国の内外に広がる吉備津宮領の中心であり、同領や周辺地域の物資集散や年貢の換金を担った。

松山 まつやま

中世における備中国屈指の要城・松山城の城下町。備中を南北に貫流する高梁川と支流の成羽川とが合流する地点の北側に広がる盆地に形成されたとみられる。松山の地は南北と東西の街道が交差し、また高梁川の水運も抑えることができる水陸交通の要衝であった…

成羽 なりわ

備中国の主要河川である高梁川の水系・成羽川が貫流する成羽盆地に位置した市庭町。中世、天龍寺領成羽荘の中心であるとともに、戦国期、有力国衆・三村氏の拠城・鶴頸城の城下町としても栄えた。

西阿知 にしあち

備中国の大河川・高梁川の中世における河口部に位置する港町。水運の拠点として物資集散地を担った連島に対する同河川流域の物資集積地として発展した。

連島 つらじま

中世において、備中国の大河川・高梁川の河口部沖、児島の北西端沖に浮かんでいた連島の港町。高梨川流域をはじめとする備中内陸部および瀬戸内海を中心とする海域の物資集散地として栄えた。