戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

柿並 房友 かきなみ ふさとも

陶氏被官。陶隆房(晴賢)に仕えた。官途名は市佑、のちに佐渡守か。天文年間に陶氏の奉行人や東福寺領得地保の代官を務めている。厳島合戦で陶晴賢の身代わりとなって討死した柿並佐渡入道と同一人物の可能性がある。

柿並 四郎三郎 かきなみ しろうさぶろう

大内氏被官。天文三年(1534)の豊後薄野浦で警固衆として戦った。江戸期編纂の「譜録」は、柿並氏を大内教弘の子で長門国阿武郡柿並谷に拠った弘慶に始まるとする。なお「譜録」では、天文年間に隆幸、隆正の名がみえるが、史料上での確認はできない。

江良 神六 えら じんろく

陶氏被官。深野房重の孫で、養子として江良氏に入った。厳島合戦後、祖父の功績により毛利氏に仕えた。毛利家中では赤川元保が後ろ盾となったが、毛利隆元からの評価は辛かった。

江良 愛童 えら あいどう

毛利家臣。江良賢宣の子。愛童は幼名で実名は不明。父の討死後、幼くして跡を継いだ。天正年間にみえる毛利家臣・江良弾正忠と同一人物と考えられている。白井晴胤に嫁いだ姉妹がいる。

江良 賢宣 えら かたのぶ

陶氏被官。官途名は弾正忠。陶晴賢に仕えて廿日市支配を担当。毛利氏の周防侵攻に際しては、都濃郡須々万沼城で頑強に抵抗し、降伏後は毛利氏の防長経略に協力して活躍した。少なくとも二人の子がおり、一人は嫡男の愛童(実名不明)、もう一人は息女で白井…

新里 隆溢 にいざと たかみつ

大内家臣。厳島神領衆。官途名は若狭守。新里若狭守の子か。大内氏の赤間関支配を担い、後に安芸国佐西郡支配に関与した。

江良 藤兵衛尉 えら とうひょうえのじょう

陶氏被官。陶興房に仕えた。永正八年(1511)八月の船岡山合戦で活躍し、周防国都濃郡須々万に所領を得た。益田氏への使者も務めていることから、興房の側近であったと考えられる。