戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

池端 重尚 いけばた しげひさ

 大隈国祢寝院の領主・池端清本の嫡孫。弥次郎。父は清住。「唐人」と「南蛮人」の合戦に巻き込まれて不慮の死を遂げた。

「唐人」と「南蛮人」の合戦

 重尚の名は「天文十三年(1544)十一月五日付沙弥清本譲状案」にみえる。この譲状案は重尚の祖父である池端清本が、重尚の弟にあたる又七に対し、池端氏代々の所領を譲ることを記したもの。書状の最後には、清本が又七に所領を譲渡することになった経緯が記されている。

 これによれば、清本の嫡子であった清住は、高岳城の戦いで討死。その嫡子・重尚は小祢寝港*1で「唐人」と「南蛮人」が合戦した際に「手火矢」(鉄炮)にあたって討死した。このため、清住の次男である又七に所領が譲渡されることとなった(「池端文書」)。

ペロ・ディエスが伝える合戦の経緯

 池端重尚が、大隈の小祢寝港において遭遇した「唐人」と「南蛮人」の紛争について、これと符合する記録がヨーロッパに残されている。すなわち「エスカランテ報告」所収の「ガリシア人ペロ・ディエスの情報」に、ペロ・ディエスが日本で遭遇したポルトガル人と中国人の紛争が記されている。

 1544年(天文十三年)五月、中国人のジャンクに乗船して東南アジアのパタニを出港したディエスは、中国の漳州や双嶼などで取引をした後に日本に向かった。港にはパタニに住む中国人所有のジャンク船5隻が停泊し、ポルトガル人が何人か乗船していた。

 そこに100隻以上の中国人のジャンク船が襲い掛かってきた。これに対し、ポルトガル人は4隻の小舟と3門のベルソ(小型の仏郎機砲)、16丁のアルカブス(火縄銃)でもって応戦。中国人のジャンクを敗走させて、多くの中国人を殺した。

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  ディエス情報には、紛争があった港についての記載はない。しかし当時のポルトガル人の来航は薩摩の山川など南九州に限られていたことから、南九州を代表する港であった小祢寝港である可能性は高い。時期も、ディエスが日本に来航した時期と、譲状案が作成された時期とが整合している。

鉄砲伝来翌年の事件

  これらのことから、池端重尚は、天文十三年(1544)の夏か秋ごろ、小祢寝の港において中国人とポルトガル人の紛争に巻き込まれ、鉄炮にあたって討死したということになる。ただ当時の重尚は、祖父・清本の後継者として池端氏当主を継ぐ立場にあったものと思われるが、どのように紛争に関わっていたかは不明。

 種子島鉄炮が伝来したのが天文十二年(1543)頃なので、その翌年には南九州において日本人の目の前で仏郎機砲や火縄銃を用いた大規模な合戦が展開されたことになる。

参考文献

  • 清水紘一「ポルトガル人の種子島初来年次考」(『日欧交渉の起源 -鉄砲伝来とザビエルの日本開教-』 岩田書院 2008)
  • 岸野久「パウロ・デ・サンタ・フェ・池端弥次郎重尚同一人説について」(『ザビエルと日本』 吉川弘文館 1998)
  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

鹿児島県・南大隅町・根占港 from 写真AC

*1:小祢寝港は、大隅半島南部の領主である禰寝氏の本拠。池端氏は禰寝氏の庶流。

稽天 けいてん

 薩摩国薩摩郡東郷(現在の鹿児島県薩摩川内市東郷町)出身の日本人海商。東郷の国人領主・東郷氏の被官か。1548年(天文十七年)三月に貿易のために双嶼に向かうも、明軍に拿捕された。彼の供述により、日本人が中国での密貿易に関わる経緯の一端が明らかになっている。

福州人の来航

 1543年(天文十二年)頃、中国の福州出身の林陸観(別の史料では林爛四とも)が日本の薩摩国に来航。しかし船が難破し、3年間留まっていた。そこで稽天の主君(東郷の国人領主・東郷氏か)が、林に米銭を貸与するとともに銀5貫を与えて船を造らせ、1547年(天文十六年)に中国に向かわせた。

 このとき稽天の五子も同乗。六月、浙江省沖の密貿易拠点・双嶼において交易を行い、銀6貫260目を回収し、林ら中国人とともに帰還した(『甓餘雑集』)。

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双嶼に向かう

 林らは現地の「国王」(東郷氏か)に「我が大明は売買甚だ好し」と説いた。これを受けて「国王」は、稽天等に銀5貫文(300両)を貸与し、船1隻を建造したうえ、「番銃二架」や番弓、番箭、倭刀(日本刀)、藤牌、長槍、鏢槍などの武器を供与した(『甓餘雑集』)。

 1548年(天文十七年)三月、東郷出身の稽天・新四郎・芝燗らは、林を船主とする新造船に同乗して京泊港から出航。しかし四月二日、双嶼南方の九三の海島において、双嶼攻撃に向かっていた明朝海軍に攻撃され、船は拿捕されてしまう。この時、芝燗と稽天の三子が戦死。稽天と新四郎は、林等中国人密貿易者53名とともに明軍の捕虜となった(『甓餘雑集』)。

 兵船を率いた明将・盧鏜の報告によれば、船は全長約28メートル、幅は約7.5メートルという大船であった。大仏狼機銃2門を搭載しており、他にも銅銃3挺、鉄銃1挺、藤牌20面、大小の倭刀14把、大小の長槍35根を装備していた(『甓餘雑集』)。稽天の主君(東郷氏か)が、稽天らに渡した「番銃」とは仏郎機砲だったことが分かる*1。銅銃・鉄銃は、伝統的な鉄筒と推定されている。

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稽天の供述

 捕虜となった稽天・新四郎の身柄は、浙江海道副使の魏一恭のもとに送られ、訊問が行われた。ただし稽天の供述には疑問点もあったらしく、紹興府知府の沈啓により、日本語が堪能で、かつて双嶼で稽天にあったことがあるという中国人を通訳として、再度の訊問が行われた。これら訊問により、稽天らの出身および日本から双嶼に向かった経緯が明らかとなっている。

 なお稽天は、下記のような供述も行なっている。

向来(かつて)は倭人の上国に過(いた)るは有るなし。今に至りては船船に倶に各々本国の人有りて、前来して販番す。尚百数の倭人有りて、後来の船に在るも未だ到らず。

 かつては日本人が明朝に渡ることはなかった。しかし今では日本から双嶼に向かう船には、つねに日本人が乗り込む。さらに百数十人の日本人が、後続の船に乗って双嶼に向かっている、としてきる(『甓餘雑集』)。

 1548年(天文十七年)五月二日、陳瑞という密貿易船の船員が、明軍に捕縛された。陳瑞は、自分が日本から乗ってきた船には日本人20人が乗っていたと述べており(『甓餘雑集』)、稽天の供述を裏付けている。

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参考文献

  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

仏狼機 籌海図編19(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:仏郎機砲は、薩摩東郷氏が交易活動を通じて中国海商かポルトガル人を入手したものとみられる。ただし日本に来航したヨーロッパ人から海賊が奪った武器が、東郷氏の手に渡っていた可能性もある。

大福船 だいふくせん

 16世紀、中国明朝の福建地方で造られた尖底の大型ジャンク船。小型艦船を圧倒する戦闘力を有したという。明軍だけでなく、中国福建の密貿易商人たちも用いており、日本人が買い入れていた可能性もある。

福建の大型軍船

 16世紀中頃に倭寇対策に参与した中国明朝の鄭若曽は、福建の大型軍船である「大福船」について、以下のように記している(『籌海図編』)。

福船は高大なること楼の如く、百人を容る可し。その底は尖り、その上は闊(ひろ)し。〔中略〕㭦楼三重を上に設け、その傍らは皆な護板にして、裼(かさね)るに茅竹を以てし、竪立すること垣の如し。その帆桅は二道にして、中は四層たり。〔後略〕

 大福船は100人を収容する尖底の大型船であり、デッキには高く障壁をめぐらし、二本マストでキャビンは四重であったという。

 また別箇所では、大福船が「高大」である利点として、敵は「矢石・火炮」を仰ぎ見る角度からしか発射できないとしている。この為、小さい船舶に対し圧倒的なアドバンテージを有しており、「誠に海戦之利器也」と断言されている。一方で小回りはきかず、吃水が深いために岸近くで停泊する事は出来なかったらしい。

朝鮮近海に現れた「荒唐大船」

 1544年(天文十三年)六月二十二日、朝鮮の忠清道・藍浦の近海に「荒唐大船」*11隻が出現。船の乗員の中心は中国福建の密貿易商人であり、銀貿易の為に日本に向かう途中、嵐にあって漂着していた。

 この「荒唐大船」について、朝鮮側の記録には「双帆を掛張し」「高大なる一船、双檣に旗を懸け」などの描写があることから、二本マストの大型船であったことが分かる。また朝鮮水軍の「火炮・弓箭」に対しては、「唐人は外に防牌を設け」て、つまり障壁をめぐらせて攻撃を防いでいる(『中宗実録』)。朝鮮水軍を圧倒する「火炮」(仏郎機砲か)も搭載されていた。

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 同年九月八日、朝鮮王朝の判中枢府事・宋欽は、上疏の中で以下のように述べている(『中宗実録』)。

その船は堅緻なること異常にして、四面には皆な板を以って屋を為(つく)り、又たその中は寛闊にして、百余人を容るべし、その他の器械も、一として整わざるは無し。

 デッキの四面に板をめぐらして楼屋をつくり、100人以上を収容できると描写している。これらのことから、1544年(天文十三年)に朝鮮近海に現れた「荒唐大船」は、大福船に類似する二本マストの大型船であったとみなすことができる。

 「荒唐大船」は、八月まで朝鮮近海に留まり、食料や水を調達した後、姿を消した。当初の目的地である日本に向かったと推定される。

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日本人による船舶買い入れ

 鄭若曽が編纂した『籌海図編』の「福建事宜」には、「倭人」(日本人)が福建にやって来て、現地の「福人」から「舟」を買っていることが記されている。同じく『籌海図編』の「経略二」「開互市」には、「日本夷商」が「尖底船」を買っているとの記述がある。

 さらに「倭般」条でも、倭人が福建沿海の奸民から船を買い、外海で重底に「貼造」した上で、渡航して来るとする。その船は「底尖」で走波性に優れ、風に強く、数日の航海で到着できるのだという。

 日本人が福建で現地人から買い入れた船種は、尖底の大型船である大福船、または『籌海図編』で小型の福船と紹介される「草撇船」であったかもしれない。

参考文献

  • 太田弘毅 『倭寇―商業・軍事史的研究』  春風社 2002
  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

大福船 籌海図編18(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:荒唐船は、倭船か唐船かが不明瞭な海賊船を指す朝鮮側の呼称。

李 章 り しょう

 中国福建・泉州府同安県出身の貿易商人。16世紀中頃、銀貿易の為に日本に向かう途中、朝鮮に漂着した密貿易船の「頭人」の一人。李章らの密貿易船は、100人以上が乗船する大型ジャンク船であり、乗員の多くが福建の海商たちであったとみられる。

火炮を備えた荒唐船

 1544年(天文十三年)六月二十二日、朝鮮の忠清道・藍浦の近海に「荒唐大船」*11隻が出現。朝鮮の水軍が、賊倭(倭人の海賊)とみなして砲撃・弓射したところ、荒唐船は外洋に逃げ去った。その際に捕虜となった福建出身の明人・李王乞の供述により、この荒唐船は銀貿易の為に日本へ向かう途中、嵐によって朝鮮西南岸に漂着したことが分かった(『中宗実録』)。

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 七月五日、塩を運搬していた小船が、忠清道馬梁の近海でこの荒唐船に遭遇。船中には「異服の人百余名有り、或いは紅巾を以て頭を裏(つつ)み、或いは匹段を以て衣と為し」ていたという。荒唐船は小船を劫掠したうえ、その乗員に海島の井泉を案内させて島上に放置し、「双帆を掛張して西海の大洋に」去っていった(『中宗実録』)。

 七月十四日、全羅道の飛弥島に停泊していた荒唐船を、朝鮮水軍が包囲した。全羅道右水使の報告によれば、荒唐船の乗員は90余名で、黒衣を着た者もあり、言葉は通じなかった。このため文字を大書して漂着の理由を尋ねたが、かえって荒唐船は「火炮」を発し、炮に当たった朝鮮の兵士2名が死亡し、2名が負傷した。朝鮮側は止むを得ず「火炮・弓箭」で応戦したが、唐人は船上の防壁に隠れ、東方沖に去ったという。

 この事態に左承旨の安玹は、このまま荒唐船が日本に渡航し、火炮の技術を教習しては一大事であると指摘。全羅道近海を出さないようにすべきだと提言して、国王中宗もこれに賛同している(『中宗実録』)。

捕らわれた乗員

 その後、忠清道・泰安半島の麻斤浦に「高大なる一船」があらわれ、「双檣に旗を懸け、海口に住泊」した。その乗員はおよそ150人とされ、そのうち前後して38名が上陸。忠清道では、上陸した唐人の身柄を確保し、清州と泰安に留置した(『中宗実録』)。

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 彼らの供述によれば、荒唐船には高賢・李章以下の10名の「頭人」のほか、60名の「客公」、および10名の水夫が同乗していたという。「頭人」は船主以下の幹部、「客公」は同乗した商人と考えられる。

 七月十九日、朝鮮水軍が船上に残った唐人に下船を勧告。しかし唐人たちは応じず、二十一日、荒唐船は洪州へと南下した(『中宗実録』)。

 七月二十三日、中宗は上陸した唐人の身柄を政府に送致させるとともに、荒唐船自体は必ずしも追跡する必要はないと指示。そのうえで、日本に往来する密貿易船は、今後も相次ぐだろうから、日本人が火砲を習得するのを防ぐのは難しい、との見通しを示している。

頭人」李章の交渉

 七月二十八日、唐人たちの身柄が政府に到着し、訊問が行われた。「頭人」の中でも李章は文才ある知識人であり、上書して漂流の経緯を説明した。それによれば、彼は福建省泉州府同安県の出身で、飢饉のため生活に窮し、やむをえず海禁を犯して海外貿易に乗り出したが、暴風により朝鮮近海に漂着したのだという。李章は八月一日にも上書して、陸路で明朝に送還するのではなく、海路で帰還することを許してほしいと懇願している。

 朝鮮政府内では、海路で帰還させる案は検討されたものの、結局は李王乞や李章をはじめとする唐人の身柄は、陸路により遼東経由で明朝に引き渡すことになった。ただし遼東郡司への咨文では、彼らが銀を求めて日本に密航したことだけを記し、死罪に当たる軍器の国外持ち出しについては触れないことにした(『中宗実録』)。

その後の荒唐船

 八月一日、荒唐船は再び南下して全羅道霊光近海の声伊島に停泊。田地の穀物を刈り取って船内に積み込んだ。

 八月五日、同島にて荒唐船の乗員が朝鮮の兵船を襲撃。唐人30余名が小船に乗って火炮を放つ一方で、山上からも紅白の頭巾や黒衣を着た人々が火炮で砲撃し、朝鮮の兵船を挟撃して敗走させた。この時、朝鮮の兵士7名が荒唐船の捕虜となった。

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 八月十二日、荒唐船の唐人は捕虜の一人に託して、朝鮮側が上陸した仲間を拘留したことを非難する書簡を送り、外洋へと出帆していたったという(『中宗実録』)。以後、荒唐船の動向は記録に見えなくなる。食料と水を積み込んで、日本へ向かったと考えられる。

荒唐船の乗員たち

 荒唐船の「頭人」であった李章は、前述のように福建省泉州府同安県の出身*2であった。泰安に上陸した唐人たちの供述調書では、「頭人」9名と「客公」40名の姓名が列挙されているが、鄭・林・何・高・黄・王など福建に多い姓がみられる。荒唐船の乗員の多くが福建海商であったことが背景にあると思われる。

 この地域では人口が過剰で、李章自身も述べたように、人々は15世紀末から、海禁を犯して南シナ海域で密貿易を展開していた。16世紀中頃には、日本銀を求めて、彼らの活動が東シナ海域にも拡大していたことがうかがえる。

 また李章の上書の文章表現は、一般の商人が用いる実用的漢文ではなく、故事や修辞を多用した文人的漢文であった。このため、彼は少なくとも科挙初級試験(童試)のための学問を修めた読書人であったと考えられるという。

 なお荒唐船には、黒衣を着て、紅白の頭巾を着けた者たちがいた。東アジア海域の人々は黒衣を着用することは稀であるが、一方で16世紀のスペインでは、男性の着衣には質実な黒色が推奨されており、ポルトガルも同様*3であったと考えられるという。またポルトガルの船員は、紅白の頭巾を着用することが多かった*4

 1544年(天文十三年)七月に荒唐船が泰安半島に停泊た際、その船員を目撃した朝鮮の役人は「或いは唐人の容貌の如くならざる有り」とも述べている(『中宗実録』)。李章らの荒唐船には、ポルトガル人の私貿易商人も同乗していた可能性がある。

参考文献

  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

中国福建省 石造りの塀の向こう from 写真AC

*1:荒唐船は、倭船か唐船かが不明瞭な海賊船を指す朝鮮側の呼称。この船は後述の朝鮮側の記録から、明朝で大福船と呼ばれた大型ジャンク船であったと推定される。

*2:泉州府同安県は、1548年(天文十七年)に双嶼攻撃を発動した朱紈が、沿海密貿易の黒幕として弾劾した郷紳の林希元の地元でもある。林希元をはじめとする郷紳層と、海商や土豪が結びついた、同安における密貿易ネットワークの一端に、李章も連なっていた可能性があるという。

*3:東アジアに来航したポルトガル人の多くが黒色の衣服を着用していたことは、各種の南蛮屏風にも描かれている。

*4:ポルトガル人画家アンドレレイノーゾによる1612年の作品「聖フランシスコ・ザビエルの伝説」第9図には、描かれたポルトガル船員のうち9名が赤系統の頭巾を、4名が白色の頭巾を着用している。

李 王乞 り おうきつ

 中国福建・漳州出身の貿易商人。16世紀中頃、銀貿易の為に日本に向かったが、朝鮮に漂着して捕縛され、明朝に送還された。朝鮮政府にとっては、日本・福建間の密貿易活発化を認識する契機となった。

朝鮮に漂着した荒唐船

 1544年(天文十三年)六月二十二日、朝鮮の忠清道・藍浦(ラムポ)の近海に「荒唐大船」*11隻が現れた。朝鮮の水軍が、賊倭(倭人の海賊)とみなして砲撃・弓射したところ、荒唐船は外洋に逃げ去ったが、その際に乗員一人を捕虜とした。

 彼は言語・容貌・服装ともに明らかに唐人(中国人)であり、福建出身の李王乞と称した。その供述によれば、この荒唐船は、銀の貿易を行うために日本へ向かう途中、嵐に逢って流されたものと分かった(『中宗実録』)。

 この事件と符合する記事が、中国明朝の史書『世宗実録』嘉靖二十三年(1544)十二月の条にある。すなわち、漳州の民李王乞らが、貨を載せて「通蕃」(この場合は日本との貿易)しようとして嵐にあって朝鮮へ流され、朝鮮王は39人を捕獲して遼東郡司に械送した、とある。

 この荒唐船は、以後も朝鮮近海に留まり、朝鮮水軍と数度交戦。七月、李章ら「頭人」を含む乗員の一部が忠清道・泰安半島の麻斤浦に上陸し、朝鮮軍に捕らえられている。その後、八月十二日に外洋に向けて出航したことが報告されており(『中宗実録』)、当初の予定通り日本に向かったものと考えられる。

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日明間密貿易の急増

 1547年(天文十六年)三月、朝鮮政府は朝鮮近海に漂着した中国福建の密貿易者341人を、明朝に送還した。その際の遼東郡司への咨文には、以下のように記されている。

福建の人民、故(もと)は海に泛びて本国に至る者無し。頃(このこ)ろ李王乞等より、始めて以て日本に往きて市易せんとし、風に漂う所と為る。今又た馮淑等、前後共に千人以上を獲たり。皆な軍器・貨物を來帯す。これより前、倭奴には未だ火炮有らざるも、今は頗るこれ有り。蓋しこの輩の䦨出する故なり(『世宗実録』)。

 李王乞が漂着した頃から、中国福建の密貿易船が日本に向かうようになり、朝鮮への漂着が急増していると、朝鮮政府は認識していた。また、この福建の密貿易船は武器を積載しており、既に日本に火炮技術が伝わってしまっていることに危機感を募らせていることもうかがえる。

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参考文献

中国福建省の浜辺 河口から海へ from 写真AC

*1:荒唐船は、倭船か唐船かが不明瞭な海賊船を指す朝鮮側の呼称。

鉄丸銃筒(日本) てつがんじゅうとう

 鉄製の弾丸を発射したとみられる銃筒。中国明朝の火器であったが、16世紀中頃に中国人の密貿易者によって日本にも伝えられた。日本人による製造も行われ、朝鮮王朝でも導入が図られた。

明宗の危惧

 1545年(天文十四年)八月、朝鮮の済州島に荒唐船(中国の密貿易船)が漂着。同船には銃筒をよく解する唐人が搭乗していた。その銃筒は、朝鮮で一般的に用いられてた、箭矢を発射する銃筒ではなく、鉄製の弾丸を発射する「鉄丸銃筒」であり、朝鮮政府では彼からその用法を伝習することにした(『明宗実録』)。この「鉄丸銃筒」は、鉛の弾丸を発射する火縄銃ではなく、中国の明朝で広く用いられた前装式の銅銃であると推定されている。

 なお朝鮮の明宗は、朝鮮軍への「鉄丸銃筒」導入の理由について、日本人が唐人からこの「銃筒」を伝習したならば大変なことになる、との懸念を挙げている。既にこの漂着の5ヶ月前の1545年(天文十四年)三月には、日本の五島列島の倭船が、多くの兵器を舶載して全羅道に来航。朝鮮王朝に「火炮」を進献しようとしたという(『仁宗実録』)。

日本への伝播

 明宗の危惧は、現実のものとなった。1547年(天文十六年)三月、朝鮮政府は明朝に対して、「倭奴」(日本人)は以前は火炮を持っていなかったが、現在は頗る保有している、と伝えている*1(『世宗実録』)。同年七月にも、領議政の伊仁鏡らが明宗に対し、福建人が倭奴に兵器を渡し、火炮の技術を教えていると報告。自国と明朝にとって不利な事であると述べている(『明宗実録』)。

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 また1553年(天文二十二年)六月、三浦羅古羅(三郎五郎?)らの倭寇集団が明朝から帰還する途中に、黄海道に漂着して捕縛された。三浦羅古羅らから聞き取りを行った兵層判署の李淩慶は、日本の博多には百余名の唐人が来居して密貿易に従事しており、さらに「鉄丸火砲」などの武器も日本人に教習している、と上奏している(『明宗実録』『東皐先生遺稿』)。福建人が日本人に伝えた「火炮(火砲)」とは、鉄製の弾丸を発射する銃筒類であったことが、このことからも分かる。

朝鮮王朝への輸出

 一方で、朝鮮王朝は、日本人からこれらの銃筒を伝習することも図っている。1554年(天文二十三年)十二月、朝鮮の備辺司*2は、日本人の信長に製作させた「銃筒」について、設計は精密であったが、「薬穴」に火を入れにくく、威力は不十分であったと報告している(『明宗実録』)。翌1555年(天文二十四年)には、やはり備辺司が、日本人の平長親が持って来た「銃筒」について報告。至って精巧であり、火力もまた猛烈である為、賞賛せざるを得ない、と評価を述べている(『明宗実録』)。

 信長の銃筒が、「薬穴」に火を入れにくいと評価されていることから、この銃筒は西洋の火縄式点火装置ではなく、薬室上部の火穴から点火する、伝統的な銃筒であったことがうかがえる。16世紀後半、朝鮮王朝では従来の小型銃筒に代わり、新型の勝字銃筒が製造されている。明朝や日本から導入された鉄丸銃筒の影響を受けての変化と推定されている。

 ただ日本では16世紀後半に、銃筒に比べてはるかに性能の優れた火縄銃が普及。銃筒の使用は廃れていったと考えられる。

参考文献

  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

博多港 from 写真AC

*1:1547年(天文十六年)三月、朝鮮近海に漂着した中国福建の密貿易者341人を明朝に送還した際、遼東郡司への咨文に記されている。これによれば、福建の人民は、以前は朝鮮に至る者は無かったが、1544年(天文十三年)に李王乞等が朝鮮に漂着・送還された頃から、日本に赴いて貿易しようとし、風に流されて朝鮮に漂着するようになったという。そして今回送還する馮淑を含めて、皆が軍器・貨物を舶載しており、倭奴が以前は持っていなかった火炮を持っているのは、このような輩が現れた為である、としている。

*2:備辺司は国境地帯の防備策定にあたる中央機関。1554念(天文二十三年)に常設化された。

楊 三 ようさん

 広東虎門出身の中国人。クリスチャンで、洗礼名はペドロ。東南アジアに密航した後、ポルトガル船の船員として広州に来航した。火薬や大砲の製法に通じ、明朝の仏郎機砲導入に大きな役割を果たした。

仏郎機砲の鋳造

 1517年(永正十四年)、ポルトガル船団が明朝との通交を求めて広州湾に来航した。1520年(永正十七年)、ポルトガル船などの停泊地であった屯門付近を管轄する東莞県巡使・何儒は、関税徴収の為にポルトガル船を訪問。この時、長年ポルトガル人とともにあり、造船や銃(砲)・火薬の製法を熟知しているという楊三、戴明という2人の中国人と会った。

 翌1521年(大永元年)、広東海道副使としてポルトガル船団への対応にあたっていた汪鋐は、何儒を通じて楊三らと接触。多額の賞金を示された楊三らは、寝返りを約束し、何儒が密かに用意した小船でポルトガル船から出て、汪鋐のもとで仏郎機砲を鋳造した。

 1522年(大永二年)、汪鋐はこの仏郎機砲を活用して、西草湾の海戦でポルトガル船団を破る。海戦後、楊三は何儒に連れられ、ポルトガル船から捕獲した仏郎機砲4門を梧州の両広総督を通じて朝廷に献上している。

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ポルトガル人の書簡

 仏郎機砲が明朝へ伝来した経緯について、ポルトガル側にも史料が残されている。1521年(大永元年)、ポルトガル人ヴァスコ・カルボは、兄のディオゴ・カルボの率いる貿易船によって広州湾に来航したが、明朝の貿易禁止令を無視したため、当局に逮捕・投獄されてしまった。1524年(大永四年)末頃、ヴァスコ・カルボは獄中から密かに書簡を送っている。

 この書簡によれば、ディオゴ・カルボの船には、ペドロという名の中国人クリスチャンが妻とともに乗っていた。彼は(ポルトガル船追放の)騒動により、故郷であった虎門に戻って身を潜めていたが、中国高官に保護された。そこでペドロは、ポルトガル人がマラッカやコチンで持っている武力を全て知っていると語り、火薬・大砲・ガレー船の製造法も知っていると述べたという。

 中国史料と異なる部分があるが、中国人クリスチャンのペドロとは、楊三を指している可能性が高い。楊三=ペドロは、広東の虎門出身で、東南アジア(おそらくマラッカ)に密航してポルトガル船の船員となったのだろう。インドのコチンにも、滞在したことがあったのかもしれない。

 ヴァスコの書簡には、さらに楊三=ペドロの活動が記されている。楊三=ペドロは、広州でガレー船を2隻建造したが、中国の高官の評価を得られず、以後の造船計画は中止された。しかし火薬・大砲の知識は認められ、皇帝のもとに送られて、禄を給付される身分を得た。北京ではマラッカの情報を伝えるとともに、大砲の製造を行ったという。

ポルトガル船の中国人

 ポルトガル船の広州湾来航時、広東按察司僉事であった顧応祥は、仏郎機砲の伝来過程について「時に海寇を征するに因りて、通事は銃式一個、并びに火薬の方を献ず」と伝えている(『籌海図編』)。この「通事」(通訳)も、楊三らを指すのだろう。

 16世紀初頭に中国に来航したポルトガル船には、このように広東や福建から海禁を破って、東南アジアに渡航した中国人が同乗していた。彼らは時に「通事」(通訳)としてポルトガル人と中国人の仲介を行い、また関税徴収にあたる広東当局の官吏との交渉も担っていたとみられる。楊三=ペドロも、おそらくこうした中国人の一人であったと考えられる。

参考文献

  • 中島楽章 「銃筒から仏郎機銃へ―十四~十六世紀の東アジア海域と火器ー」(『史淵』巻148 九州大学文学部 2011)

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