戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

杉 長忠 すぎ ながただ

 大内家臣。仮名は四郎三郎。官途名は大蔵丞。重忠隆宗の父か。大内氏から筥崎宮領那珂西郷の知行を与えられた。筑前国内での社領をめぐる裁判に関わったことが、史料上で確認できる。

豊前国馬岳城の合戦

 文亀元年(1501)七月二十三日、豊前国京都郡の馬岳城詰口において、城を包囲していた少弐資元と大友親治の連合軍を、大内勢が打ち破った。長忠は杉武連の麾下で戦い、「太刀討粉骨」したとして大内義興から感状を得た(「永田秘録杉英勝家証文」)。

 この合戦には、周防守護代陶興房長門守護代・内藤弘春、豊前守護代・杉重清ら大内氏重臣たちが参加*1しており、大内氏の注力のほどが知られる。この後、同年九月に足利義伊の仲介で、大内氏と大友氏の和睦が成った。

筑前国那珂西郷の知行

 永正九年(1512)三月七日、長忠が所望する大蔵丞の官途が、大内義興によって吹挙された(「永田秘録杉英勝家証文」)。

 大永三年(1523)二月二十日、大内義興は杉大蔵丞長忠に対し、筑前国那珂西郷内20町地(石清水社領)と屋敷一所(石堂外、号今畠)の知行を与えた(「石清水文書」)。この二か所は筥崎宮の所領であったが、長忠は筥崎宮の本家である石清水八幡宮から代官に補任され、これを大内義興が認める形をとっている。

 義興は正税米5石を毎年石清水八幡宮に上納することと、余得分である公事足30石地は大内氏への「武役」(軍役)を勤めるよう命じている。荘園の代官請負が、大内氏の知行制の中に組み込まれていることがうかがえる。

 なお、長忠に与えられた屋敷一所の所在地「石堂外」は、「外石堂」とも呼ばれる博多内の地名で、具体的には石堂口すなわち石堂川沿いの地域であったと考えられている。

筥崎宮による還補訴訟

 大内義興の時代、筥崎宮社領は長忠以外にも大内氏被官の知行地に充てられた。これに対し、筥崎宮社家により還補訴訟が起こされていた。

 享禄二年(1529)三月、按察法橋・奏禅は訴訟自体の正当性は認めつつも、訴訟対象の内で杉長忠が知行する5石1貫文については、自身の力が及ばないとしている。その理由として、長忠の知行は「本家」(石清水八幡宮)が補任したものであり、本家への納税も行われていることを挙げている(「田村文書」)。

 ただ大内義隆の代になって、長忠知行地以外は還補が進んだ。天文二年(1533)六月には那珂西郷の田中藤左衛門の扶持地を筥崎宮宮司に打ち渡すよう大内氏奉行人から筑前守護代・杉興長に指示されている。天文五年(1536)閏十月段階で、還補地は8か所分89町4段にものぼっている(「田村文書」)。

筑前国での活動

 享禄二年(1529)八月十六日、太宰府天満宮の満盛院御神領である正覚寺領をめぐる二人の僧侶、玄了と永運の裁判が、筑前守護代・杉興長の居城・高鳥居城(糟屋郡)で行われ、判決内容が興長被官*2から満盛院に伝えられた(「満盛院文書」)。

 しかし執行されなかったらしく、九月十一日に沓屋連祐ら興長被官*3から満盛院に催促が行われた。沓屋連祐らは、裁判結果に両者が納得していたことを強調するとともに、裁判の証文について杉長忠から閲覧希望があり、田富新左衛門尉(永運の父)の所から取り寄せて、長忠に渡したことを伝えている(「満盛院文書」)。この裁判と長忠との関わりは不明だが、少なくとも興長被官と満盛院の両者にとって、長忠は関係者として認識されていたことがうかがえる。

  同年の享禄二年(1529)十一月、長忠は筑前国での別の裁判に関わっている。これは同国早良郡次郎丸名20町地(筥崎宮領)の代官職をめぐる大内氏被官・隅田多門法師と杉興長被官・箱田飛騨守の裁判*4であり、大内氏奉行人のもとに訴訟が持ち込まれていた。

 十一月二十一日、隅田氏方の主張を認める判決が出され、大内氏奉行人・杉興重および野田興方から杉興長へと伝えられた。この時、興長への使者となったのが、長忠だった(「石清水文書」)。判決内容は、同日付で早良郡代・大村興景にも伝えられている*5

参考文献

*1:他にも杉弘依や神代貞総、杉興宣、問田胤世らが関わっている。

*2:鬼村左馬允長直、脇右衛門尉長清、沓屋新蔵人連祐の三名。

*3:沓屋連祐と鬼村長直、杉長所の三名。

*4:この裁判は、隅田と箱田の両者が代官職であることを主張したもの。代官職補任をめぐる経緯は、次のようになっている。もともと早良郡八幡宮領次郎丸名の所務職は文明六年(1474)六月、対馬守新左衛門尉為親に補任されていた。永正三年(1506)十月、為親は所務代職を箱田木工允に売却。大永六年(1526)四月、按察法橋奏禅は、木工允の当名代官職補任をとりなすことを約束。一方で永正十八年、当名代官職は隅田興秀に補任されていた。大永五年(1525)三月、大内氏は興秀の子・多門法師に興秀の跡を安堵。大永七年(1527)十一月、隅田多門法師は、代官職に補任された。つまり八幡宮方と大内方で、別々の人物を代官職に補任した形となっていたことが、争いの原因となっている。

*5:享禄三年(1530)二月二十六日、杉興長は大村興景と隅田多門法師に、代官職を打ち渡すことを伝えた。杉興重と野田興方ら大内氏奉行人にも、判決執行の旨を伝えている。しかし完全には決着しておらず、天文元年(1532)春、箱田飛騨入道が以前の所務職・対馬守新左衛門尉為親の譲状を持って訴訟。杉興重ら大内氏奉行人に却下されている(「石清水文書」)。

杉 隆宗 すぎ たかむね

 大内家臣。官途名は大蔵丞。父は杉長忠か。博多近辺に知行を持ち、大内氏筥崎宮への関与を担った。天文十六年度遣明船の副土官として中国に渡った。

博多近辺の知行地

 杉隆宗は、筑前博多の東に隣接する那珂西郷の一部を知行していた。天文十五年(1546)度から天文十七年(1548)度の3か年に、杉大蔵丞隆宗方から筥崎宮の正税米5石が毎年石清水八幡宮*1に納められている(「石清水文書」)。

 この那珂西郷の知行地は、杉長忠・重忠からの継承と推定される。大永三年(1523)二月、長忠は大内義興から筑前国那珂西郷内20町地(石清水社領)と屋敷一所(石堂外、号今畠)の知行を認められた。あわせて正税米5石を毎年石清水八幡宮に上納することと、余得分である公事足30石地は大内氏への「武役」(軍役)を勤めるよう命じられている。

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 長忠知行の那珂西郷は、天文十一年(1542)以前に杉重忠が継いでおり(「田村文書」)、隆宗は重忠から知行を引き継いだと考えられる。なお天文八年度遣明使節の副使・策彦周良は、博多滞在中に重忠とみられる杉新四郎を訪ねている(『初渡集』)。

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筥崎宮との関わり

 隆宗の活動は、筥崎宮関連の史料からうかがうことが出来る。天文六年(1537)十月十日、筥崎宮法楽に際し、大内義隆冷泉隆豊、安富興宗ら*2と和歌*3を奉納している(「筥崎宮文書」)。

 天文七年(1548)四月、筥崎宮宮司に対し、筥崎宮の旧例社法を守るべしとする大内義隆の意向を執達。天文十一年(1542)四月には、大内晴持(大内義隆の養嗣子)からの太刀一腰と神馬一疋を寄進している(「田村文書」)。

天文十六年度遣明船

 天文十六年(1547)二月二十一日、遣明使節の一行が周防山口を出発。三月三日に博多に着き、その後名護屋的山大島肥前平戸、河内浦を経由して五島列島奈留島に至り、中国の寧波を目指した。全4艘のうち、一号船の土官は大内家臣・吉見治部丞(正頼)であり、そへ(副)土官が「杉大蔵丞」であった(『大明譜』)。この杉大蔵丞は、隆宗に比定されている。他に「御用人衆」として矢田三郎兵衛、門司日向守、杉佐渡守、朽綱右京、福郷治部、御郷源三、矢田民部がいた(『大明譜』『再渡集』))。

 遣明船団は嵐や海賊に遭いながらも、六月一日に寧波の外港・定海に入港。しかし貢期がまだであるとの理由で、明朝側から拒絶された。一行は七月二日に舟山群島の嶴山島に至り、陣屋を建てて停泊し、明朝の受け入れを待つことになった。嶴山島では海賊の襲撃に備え、見晴らしの良い高台に番屋を造り、絶えず「うらもり(浦守)」を行ったという。

 嶴山島での逗留は約6か月に及んだが、この間に隆宗は死去した。その後、一行は三月十日に寧波への入港を果たす。八月二十五日、寧波にて杉佐渡守が宗領・杉大蔵丞古淡宗功禅定門の為の法要を営んだことが、遣明使節正使・策彦周良の日記にみえる(『再渡集』)。

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死後の知行

 天文二十一年(1552)九月、杉新四郎英勝は大内晴英から知行の安堵を受けた。その知行地は周防国玖珂郡日積村30石、筑前国那珂郡西郷30石、同国博多津屋敷1町(石堂口号今畠)、同国糟屋郡酒殿村4石5斗であった(『閥閲録』巻160-2)。

 筑前国の那珂西郷30石と博多石堂口の屋敷が含まれていることから、杉長忠・重忠・隆宗の三代の知行が、英勝に継承されていることが分かる。英勝は重忠または隆宗の子にあたる可能性がある。

参考文献

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筥崎宮楼門。

*1:当時、筥崎宮石清水八幡宮末社に位置付けられていた。

*2:他に万里小路惟房(正四位下行鵜右中弁)、持明院基規(参議正三位)、尭渕(権僧正法印)、大神景範(従四位下行前安芸守)、胤秀(権少僧都法眼)、祐信(大法師)が和歌を奉納している。

*3:代々をふる神のしるしもあらはれて霜にかハらぬはこさきのまつ

與依地 よいち

 道南の積丹半島の東の付け根・余市川河口部に形成された港町。現在の北海道余市郡余市町大川。中世、蝦夷地(北海道)に進出した和人の最前線となった。

最北の和人集落

 近世松前家編纂の史書新羅之記録』には、「抑も往古は、此国、上二十日、下二十日程、松前以東は陬川、西は與衣地迄人間住する事」とある。その後、志濃里の鍛冶屋村の事件をきっかけとして、康正二年(1456)から大永五年(1525)までの間に和人の里は破れ、生き残った者は皆松前と天河に集住したと、している。

 少なくとも15世紀半ばまでに、和人は東は「陬川」(勇払郡鵡川町鵡川)、西は「與衣地」(余市郡余市町)まで進出して居住していた。しか長禄元年(1457)のコシャマインの蜂起の影響があったのか、夷島の多くの居住地は放棄された。與衣地の和人たちは、上ノ国方面へと逃れたと推定される。

余市町大川遺跡

 余市町大川遺跡の発掘調査によると、この遺跡の和人関係の中世遺跡は、13世紀末から15世紀中頃のもので、その最盛期は14世紀後半から15世紀前半のものであった。

 中世の遺跡からは、12世紀末にさかのぼる珠洲焼が出土。14世紀後半・14世紀末葉の遺構からは、約100個体の中国陶磁や国産陶器(珠洲焼、瀬戸焼)が出土している。中世の陶磁器は、函館や上之国など道南で発見されていて、與衣地は、これら陶磁が発見される北限になっている。

 そして15世紀前半の和人の住居跡には、例外なく数センチメートルから25センチメートルほどの焼灰層が上部に堆積している。また同地に居住していた和人の所持品である中国陶磁や瀬戸焼の10パーセントが、火の災害を受けていた痕跡を残しているという。アイヌとの抗争による戦火であったとすれば、『新羅之記録』の内容を裏付けている。

参考文献

  • 榎森進 『アイヌ民族の歴史』 株式会社草風館 2007

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余市川と大川橋 from 写真AC

セタナイ せたない

 北海道日本海沿岸部にあったアイヌの拠点。現在の北海道久遠郡せたな町の内。和人と西部アイヌの交易の中継地であったと考えられている。

セタナイアイヌの蜂起

 享禄二(1529)、アイヌの首長タナサカシがセタナイで蜂起。工藤祐兼を敗死させ上之国に攻め寄せたが、計略により松前で蠣崎氏に誘殺された(『松前旧記』)。

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 天文五年(1536)六月には、西部の首長タリコナを大将としたアイヌが、熊石(二海郡八雲町)近辺で一揆を起こした。タリコナの妻はタナサカシの娘であったという(『新羅之記録』『東蝦夷夜話』)。タリコナの蜂起は、上之国の蠣崎基広らによって鎮圧された。

交易の中継地

 セタナイのアイヌが蜂起した時期は、夷島における蠣崎氏の勢力が強まっていた時期でもあった*1。このため背景には、交易をめぐる両者の対立激化があったともいわれる。

 せたな町に所在するセタナイ・チャシ跡からは、16世紀のものと比定される漆器類、朱塗りの盆、朝鮮系を含む大陸系の金属製のキセル、陶磁器では瀬戸焼越前焼のほか中国産の青花皿が出土している。

 元和七年(1621)、イエズス会宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスは、「メナシ」(アイヌ語で「東」の意)のアイヌは河を船で移動してセタナイに商いに行っていると記している(『北方探検記』)。メナシアイヌは船100艘でサケ、ニシンのほか、ラッコ皮松前に運んでいるとも報告されているので、セタナイにもこれらの物品が持ち込まれていたのかもしれない。

 寛文九年(1669)勃発のシャクシャインの戦いの際の史料には、セタナイと内浦湾側の国縫との間は、「瀬田内の川」(後志利別川)と「くんぬい川」(国縫川)で結ばれており、難所もなく二日の行程であり、「蝦夷シヤモ通り筋」になっていたことが記されている(『寛文拾年狄蜂起集書』)。

 これらのことから15世紀以来、セタナイは和人とメナシアイヌの交易の中継地であった可能性が指摘されている。

夷狄之商舶往還之法度

 天文二十年(1551)、蠣崎氏とアイヌとの間で「夷狄之商舶往還之法度」が結ばれた。この「法度」は、セタナイのアイヌの首長ハシタインを上之国の「天河」の郡内に据え置いて、「西夷の伊」(西部のアイヌの長)とし、知内のアイヌの首長チコモタインを「東夷の伊」(東部のアイヌの長)としたうえで、蠣崎氏が諸国から来航する商人から「年棒」を徴収して、それを「夷役」として両首長に「配分」することを定めている。 

 その後、夷島の西部から来るアイヌの交易船は、上之国の「天河」の沖で、東部から来るアイヌの交易船は知内の沖で、それぞれ帆を下げて一礼をして通過するようになったとされ、これによって以後、「国内」が「静謐」になったという(『新羅之記録』)。

  蠣崎氏は和人とアイヌとの交易の利益を、「夷役」としてセタナイや知内のアイヌに分け与えるという譲歩を行うことによって、アイヌとの緊張関係緩和を図ったとみられる。一方で、アイヌと和人との交易の場は、蠣崎氏の本拠である松前に限定されることになった。

参考文献

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せたな町 三本杉 from 写真AC

*1:永正九年(1512)の東部アイヌの蜂起により、「下国」守護・安藤家政が没落したとみられる。翌年にはアイヌの蜂起により、松前大館の守護・相原季胤、副守護・村上儀政が自害して松前守護家が滅亡した。さらにその翌年の永正十一年、上之国の蠣崎義広が松前大館に進出し、居城を松前に移している。

遣明船 けんみん せん

 室町・戦国期、日本から中国の明朝に派遣された船舶。チャーターされた国内商船が充てられた。天文十六年度船は、記録から船の全長や柱長が分かっている。

国内商船のチャーター

 残された記録類によると、遣明船は瀬戸内海の要港の商船を借りるのが常であった。15世紀中頃の宝徳度の多武峰船は安芸国高崎の船であり、応仁度の遣明船の記録『戊子入明記』は、渡唐の候補船として豊前国門司、周防国冨田上関・深溝・柳井備後国尾道田島因島備前国牛窓の船14艘を挙げている。船の大きさは、小枡で表すと700石積から2500石積までとなる。

 チャーター船には、修理だけでなく、使節・商人の居室と厩を増設するなどの作事を施し、帆・綱・碇などの船道具を補充しなければならなかった。これらには、かなりの費用がかかっており、永享四年(1432)度の十三家寄合船・八幡丸の場合、賃借代と作事・船道具代はともに300貫文だった。宝徳度の多武峰船は、賃借料と作事料はともに300貫文、文正元年(1466)閏二月に呼子浦で海難にあった応仁度の幕府船・和泉丸の場合、賃借料・作事料はともに300貫文、船道具代は100貫文であった。

天文十六年度の遣明船

 天文十六年(1547)に大内氏が派遣した遣明船は、具体的な規模が『大明譜』に記されている。これによれば、一号船は全長23尋、柱は長さ13尋であった。1尋を5尺=1.515メートルとした場合、全長約34.8メートル、柱長約19.7メートルとなる。

 遣明船ではないが、14世紀に中国産品を積んで慶元(後の寧波)から博多に向けて航海し、朝鮮半島西海岸に沈んだ新安沈船は、長さ約34メートル、幅約11メートル、排水量は約200トンと推定されている。天文十六年度の一号船は、新安沈船とほぼ同様か、それよりやや大きかったものと考えられる。

 また、荷物の積載場所と容量を示すとみられる「荷所」は、一号船で500駄、二号船は600駄、三号船は616駄、四号船は160駄であった。ただし一号船については、「但是ハ面むき也」と記されており、実際の数と乖離があったことが示唆されている。『大明譜』にこのような具体的記述があることから、著者の柳井郷直は、実際に積荷を管理するような業務に携わる立場の人間であった可能性が指摘されている。

 船の乗員数は、使節団全体の人数が600余人であることから、一船あたり150人程度と考えられる。しかし四号船は上記のように他の船よりも荷所の容量が少ないことから、規模も小さいと推定される。このため、一号船から三号船の乗員数は、もう少し多いものと思われる。

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参考文献

  • 安達裕之「船としての遣明船」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • 門田誠一「新没船資料と日元貿易」(『東アジアの海とシルクロードの拠点福建ー沈没船、貿易都市、陶磁器、茶文化ー』 海のシルクロードの出発点""福建"展開催実行委員会 2008)
  • 岡本真・須田牧子 「天龍寺妙智院所蔵『大明譜』」(『東京大学史料編纂所研究紀要 第30号』 2020)

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奈留島 海 五島列島 from 写真AC

石見榑 いわみくれ

 中世、石見の材木は「石見榑」と呼ばれ、遠隔地にも流通していた。高津川および匹見川上流域といった益田の後背地には、これを可能にする豊富な森林資源があったことが推定されている。

鎌倉期の石見材木の流通

 文永六年(1269)、円満院坊官・範政が、益田本郷の「津料・浮口」の処理を調査するよう命じている史料がある(「益田金吾家文書」)。「津料」は津(港)の利用に際して徴収され、「浮口」は関所を通る材木に対する賦課を意味する*1。この時期には、益田の港では材木が流通しており、そこから「津料・浮口」が徴収されていたことがうかがえる。

 文永八年(1271)、京都周辺で石見産の材木が流通していたことが確認できる。この年、山城国南部の高神社で本殿の造営が進められていたが、その造営の記録の中に、購入した材木についても記録されており、「阿波檜榑(ひのきくれ)」「熊野木」などと共に「石見榑」が記載されている*2。これらは材木の産地に基づく商品名あるいはブランド名と考えられる*3

 石見榑の価格は70寸で700文であり、一方で阿波檜榑は73寸で3貫500文であった。石見榑は、比較的安価な材木として流通していたと考えられている。

九州に運ばれる材木

 南北朝期成立の肥前国櫛田神社の縁起には、正和三年(1314)の出来事として、櫛田神社造営の材木を高津川上流の須河(須川)で採取した際の霊験譚が記されている。

 また天正六年(1578)の宗像大社総社辺津宮本殿の遷宮の際には、「厚薄板并柾彼是三千枚 丁長四万数」の材木が「石州益田」において調達されている(「第一宮御宝殿御棟上之事置札」) 。さらに「益田殿」(石州益田の国人) も「丁長一万数」の材木の寄進を行っている(「第一宮御造営御寄進引付置札」) 。

 社殿の造営用材等として、石見の材木が九州に輸送されていたことが分かる。

材木の供給地

 益田から積み出された材木の供給地の一つが、高津川および匹見川上流域であったとみられる。年未詳八月に益田藤兼が、子の元祥に宛てた書状には「澄川木引」とあり、匹見川上流域の澄川に木ひき(製材業者)がいたことが分かる(「益田高友家文書」)。

 また天正十一年(1583)十一月、「おほけ名」の境を定めた際、益田氏有力者の益田兼貴・兼友父子が、「材木取」の為に現地をおとずれて関係者から聞き取りを行っている(「益田高友家文書」)。

材木の運搬ルート

 享禄三年(1530)十月、益田氏と吉見氏が匹見川とみられる河川の権益について、「書違」(互いに契約状を交わし合って誓約する)を交わしている(「益田家文書」)。この中の項目の一つに「依洪水なかれ木・より物等」についての取り決めがある。これは洪水の際の流木(「なかれ木」)と漂着物(「より物」)についての事項で、それぞれ漂着先のものとしてよいとしている。

 匹見川上流域で材木が伐り出されていたことを併せて考えると、「なかれ木」とは伐採された材木が流されることを想定していた可能性がある。匹見川や高津川では、上流域の豊富な材木が多く河下しされていたと考えられる。

参考文献

  • 中司健一 「文献からみた中世石見の湊と流通」(中世都市研究会『日本海交易と都市』 2016 山川出版社
  • 西田友広 「鎌倉時代の益田と石見産材木の流通」(『企画展 石見の戦国武将ー戦乱と交易の中世ー』 島根県立石見美術館 2017)

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匹見川と澄川地区。中世、澄川には「木ひき」(製材業者)が存在していた。

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高津川河口部の高角橋から上流方向を見る。上流の匹見川・高津川流域から切り出された材木は、高津川河口部に向けて河川を利用して運ばれたと考えられている。

*1:安芸国厳島神社が設置した関所では「浮口」として、材木10枚につき1枚が徴収されたことが知られる。

*2:榑は材木の形態の一種。

*3:中世の他の史料には「伊予檜榑」「美濃木」なども見える。

柳井 郷直 やない さとなお

 大内家臣。官途名は蔵人。天文十六年(1547)に大内氏が派遣した遣明使節の一員。この時の記録『大明譜』の作成者として知られる。

天文十六年の遣明使節

 天文十六年の遣明船は、天文八年と同じく、大内氏が経営主体となって派遣された。構成は一号船から四号船の大船4艘。正使は嵯峨天龍寺の策彦周良(天文八年時の副使)、副使は近江慈光院の竺裔寿文がつとめた。水夫を含めたスタッフは、京都・堺の他39ヶ国から総勢600人以上にのぼった。

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 柳井郷直の『大明譜』には、一号船の乗員として、大内家臣たちの名も記されている。実際の遣明船経営を担う土官は、吉見正頼とその副官の杉隆宗。他に「御用人衆」として矢田三郎兵衛、門司日向、杉佐渡、朽綱右京、福郷治部、御郷源三、矢田民部*1が挙げられている*2

 『大明譜』では、一号船の記述が特に詳細であることから、郷直は同船の乗員であったと推定されている。ただし、柳井蔵人郷直の名は『大明譜』にも、正使・策彦周良の日記『再渡集』にもみえない*3。このことから「御用人衆」より下位の身分の人物と考えられる。柳井姓であることから、周防国の東の要港・柳井の出身者であった可能性がある。

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寧波入港までの苦難

 『大明譜』には、天文十六年度船の寧波到着までが、詳しく記されている。

 天文十六年(1547)二月二十一日、周防山口を出発した一行は、筑前博多名護屋的山大島肥前平戸、河内浦を経由して、四月十一日に五島列島奈留島に到着した。同月十五日、奈留大明神に能を奉納している*4

 五月四日、遣明船4艘とも奈留島を出船。途中、大風雨に遭いながらも、十二日に中国本土の山を赤間関の水夫・源三郎が発見した*5。十三日、郷直らの乗船する一号船は中国の台州府(目的地である寧波の南隣の州)に到着することができたが、船団自体は散り散りになっていた。中でも三号船は、十四日に温州で28艘の海賊船に襲われ、9名の死者を出して、艀を1艘奪われている*6

 遣明船団は、その後合流できたらしく、六月一日、4艘そろって寧波の外港・定海に入港した。しかし「十年一貢」の貢期違反であるとして、明朝側から拒絶され、30日間にわたって交渉したが、結局不成立におわった。一行はしかたなく、米・塩・薪等を購入して定海を出港。舟山群島の嶴山島に至り、陣屋を建てて停泊し、貢期が満ちるまで待つこととなった。

 嶴山島では海賊の襲撃に備え、見晴らしの良い高台に番屋を造り、絶えず「うらもり(浦守)」を行ったという。逗留期間中、嶴山島には現地の中国人が米・酒・野菜・肴などを、小舟に載せてこっそり売りに来たので、物資補給は可能だったらしい*7

 年が明けて天文十七年(1548)正月三日、役職者が乗船して出航し、同じ舟山群島の川山島に移った。なお嶴山島滞在中、一号船の副土官・杉隆宗が死亡している。

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 一方で、嶴山島・川山島滞在中も明朝側と交渉が続けられており(『再渡集』『明国諸士送行』他)、これが半年経ってようやく実った。三月八日、一行は再び定海に入港。同十日、川を遡って、ついに寧波府へ入港を果たした。

 往路・帰路共に、舟山群島から定海の海域では、奏楽を伴う明朝の護送船団が出動した(『初渡集』『笑雲入明記』)。『大明譜』でも、明朝の万戸船は旗を掲げて、管弦を演奏し、「てつはう」の大音は天に響くほどであり、その他の武官の船は数え切れないほどであったと記述されている。

帰朝までの日々

 寧波入城当日、策彦周良ら役職者は、都堂大人・朱紈らに挨拶。十七日、600名超の使節団一行は滞在施設である嘉賓堂に入った。

 同年十月六日、正使・副使ら50名が首都北京に向けて寧波を出発*8。翌年の天文十八年(1549)四月十九日に北京に到着した。北京には八月九日まで逗留し、寧波への帰還は同年十二月三十日であった。

 翌天文十九年(1550)四月十七日夜、陸揚げされていた一号船を水に浮かべ、二十日に「御乗そめ」*9と祈祷等が行われた。五月一日夜には二号船、三号船も浮かべられた。遣明船団は、五月中には寧波を出航し、帰朝の途についたと推定される。

 奥書によると、柳井郷直は天文十九年(1550)四月十五日、寧波の嘉賓堂において『大明譜』を記した*10。策彦周良ら一行が北京から寧波に戻った後、出船を待っている時期に書き上げられたと考えられる。なお、郷直が北京に随行したかは不明である*11

郷直の任務

 『大明譜』の中には、下記のような記述がある。

何も唐船かた(方)に引付たき事かす(数)をし(知)らす、、先々あらまし書付候

 全て「唐船方」に報告したい事は数え切れないほどあり、おおよそを先に記した、という意味合いとなる。ここでいう「唐船方」とは、遣明船に関わる事務に携わる奉行人である「唐船方奉行」*12を指しているとみられる。

 天文十六年度船は、大内氏が独占的に経営しており、実務を担っていたのは大内氏奉行人であった。このときの遣明船に関わる事柄を処理した同氏奉行人は、陶隆満、相良武任、吉見弘成、龍崎隆輔らが挙げられる(『天文十二年後渡唐方進貢物諸色注文』)。

 『大明譜』は、柳井郷直による彼ら奉行人への報告書という側面があった*13。あるいは、遣明船派遣のノウハウを蓄積しようとした大内氏が、郷直に報告任務を与えて渡航させた可能性も指摘されている。

参考文献

  • 岡本真・須田牧子 「天龍寺妙智院所蔵『大明譜』」(『東京大学史料編纂所研究紀要 第30号』 2020)
  • 須田牧子「『初渡集』・再渡集』ー天文八・十六年度船の旅日記ー」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)

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柳井郷直の出身地(かもしれない)柳井に残る雁木。雁木は、川をさかのぼってきた艀から荷物の積み下ろしができるように作られた船着き場のこと。

*1:「彼仁ハ通事也」ともある。矢田民部は「通事」(通訳)でもあった。

*2:天文十六年遣明船の人員は、『大明譜』や『再渡集』等から、ある程度詳細に分かっている。【一号船】船頭:博多の小田藤右衛門尉(寧波で死去)と子の弥五郎、居座:雪窓等越(釣雲)、周泰。【二号船】船頭:塩屋又左衛門尉、土官:塩屋対馬守(宗繁)、副土官:播磨国円通寺の宗稟、居座:博多継光院の天初啓竺、副居座:山口慈眼院の景順。【三号船】船頭:盛田新左衛門尉(途中で死去)、池永次郎左衛門尉、土官:山口真如寺の宗薫、副土官:堺吸江の宗演、居座:即休周琳、三英梵生。【四号船】船頭:薩摩田中豊前守、土官:玄叔、居座:博多聖福寺の順心。

*3:『再渡集』には「蔵人」と呼ばれる人物が記されている。しかし「中村蔵人」という人物の名もみえるため、「蔵人」が中村蔵人なのか、柳井蔵人なのか、断定でいないという。

*4:能は五番奉納された。脇能(正式の五番立ての演能で第一番目に上演される演目)は「靏亀」。二番「野々宮」、三番「西行桜」、四番「蘆刈」、五番「西王母」。

*5:第一発見者の源三郎には、ボーナスとして太刀一振と銭百疋が支給された。

*6:さらに水夫3名が負傷し、海に投げ出された。1名は船に戻れたものの、2名は行方不明となった。この2名は明朝側に保護されたらしく、遣明船団が寧波の外港・定海に到着した時点で、同地に送り届けられていた。

*7:正使・策彦周良の日記『再渡集』には、米・酒・蜜柑などを積んだ「小売舟」がしばしばやってきた事が記されている。また妙智院には、この間の買物記録も残っている(『於定海并嶴山下行価銀帳』)。

*8:北京から上京許可がおりたのは、八月二十一日であった。

*9:天文八年度船の帰朝の際も、天文十年(1541)五月十日に「出船始」という行事が行われている(『初渡集』)。

*10:ただし、後で追記を行ったらしく、これ以後の出来事の記載もある。

*11:『大明譜』の寧波−北京の内容は、山口から寧波入城までと比較して簡潔であることから、柳井郷直は寧波に留まっていた可能性がある。

*12:永享年間の遣明船にかかわる事務に携わった室町幕府奉行人が「唐船方奉行」と呼ばれている(『満済准后日記』永享六年正月二十三日条)。

*13:現存の『大明譜』は、天龍寺妙智院(正使・策彦周良が所属)に所蔵されている。そして同書は、内容が整理されていない箇所が散見されるため、報告書そのものというよりも、その草案と考えられている。このことから、次のような経緯が推定されるという。柳井郷直は報告書の草案を記した上で、正使であった策彦周良に点検を依頼。最終的に添削を経た正式な報告書を唐船方奉行へ提出した。その過程で策彦側に残された手控えが本書にあたる、というもの。